2019年10月07日

リーディング公演『赤の法廷 vol.1』








'19.10. 3. リーディング公演『赤の法廷 vol.1』


会場:REDスナック





 すれ違うこともままならないスナックのカウンターの内側に三人が並んで、「猿蟹合戦」に材を得た法廷劇をETVがやったものを援用する形で、裁判員に見立てた客に問い掛ける寸劇を観たのだが、思いのほか面白かった。


 TVと違って、検事・弁護人それぞれの最終弁論を聴いた後、予め用意された小さな紙片に猿への判決意見を記し、その集計を受けて判決を下すという趣向になっていた。


 死刑に賛成なら有罪、死刑に反対なら無罪と記して意見を添えるか否かは自由という投票ルールに対しては、死刑反対が一気に無罪か?との疑問が湧いたが、投票結果が「有罪7−無罪10−棄権2」となったことに驚いた。


 被告のサルは、事件当時8歳で学校に行っていてサルの青柿礫を免れた証人のカニの母蟹のみならず妹蟹まで殺していて、奪った命は一つではないながらも、8年間の逃亡生活の間に改心もし、家庭を設け今や子煩悩な一児の父となっている28歳の青年で、八つ当たり的な癇癪を若気の至りで起こしたことを反省し、毎月5万円を8年間送り続けてきているということが証言により明らかになっていた。


 16年前に観た『刑務所の中』の拙日誌に記した「死には死を」といった応報刑によって還って来る命はないのだから、そもそも死刑自体に懐疑的な僕は、償いとは、不断に悔い改めることにあると思っているので、紙片にはその旨記載した。加えて今回の設定では、サルは自ら定めた見舞金を毎月送り続けるばかりか、自らが家庭を持ったことで自分がカニの家庭を壊した罪深さが身に沁みている様子だ。そんなサルに死刑を課して、今度はサルの息子から親を奪うことが、果たして“社会正義”の名の下に行われるべきことだろうかとの想いが強く湧いた。だから、死刑反対の意見のほうが上回るだろうとの予測は当たったのだが、驚いたのはむしろ、死刑反対の得票が辛くも過半数に留まった投票結果だった。


 山田憲人【おさらい会】の演じた検事の重々しい口調に説得力があったということなのか、「刑罰」というように、思いのほか多くの人々が刑を「罰」として側面で捉えていて、事犯の重大性を以て判断する傾向が昨今の厳罰化機運のもとに醸成されているからなのか、興味深く感じた。思わず主催したREDのママ鍋島恵那【劇団彩鬼】に、2回目の公演の投票結果を訊ねてみたが、奇しくも1回目と全く同じだったとのこと。判事や証人のカニを演じていた清里達也【TRY-ANGLE】が栗・蜂・臼・糞の助力を得て復讐的私刑を下す機会を得ながら、「なぜか殺すことはできませんでした」とも証言していたのに、被害者でもない者が被害者感情を理由に厳罰化を求める風潮が確かに浸透してきているような気がして、不寛容の時代を象徴しているように感じた。


 被害者へのケアはもちろん必要なのだが、それは加害者に対する措置によってではなく、直接、被害者に対してなされるべきものだ。それなのに、そちらのほうはむしろないがしろにする形で、加害者に対する措置のみが喧伝されている気がしてならない。必要なのは、被害者が見舞われる拭い難い報復心に応えることではない。その報復心を否定することなく、報復心への囚われから解放することだと思われるのに、むしろ報復心を煽るようなことさえしている向きがあるように感じている。善後策として大切なことは、抽象的で口実的な“社会正義”ではなく、具体的な“被害者へのケア”だと思う。加害者に極刑を加えることを以て“被害者へのケア”だというのは欺瞞以外の何物でもない気がしてならない。





『刑務所の中』の拙日誌


http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2003j/07.htm








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2019年07月16日

【7/20?8/24】今週末からスタート!「としまアート夏まつり2019」

としまアート夏まつり2019


日程:2019年7月20日(土)〜8月24日(土)

会場:あうるすぽっと、区民ひろば、ぞうしがや こどもステーション、自由学園明日館

公式WEBサイト:https://toshima-saf.jp


アートと出会えるおまつりとして、毎夏豊島区で開催されている『としまアート夏まつり』。13回目となる今年は、区内複数の会場で、様々なジャンルのアーティストによる作品上演や参加型プロジェクトがおこなわれます。

あうるすぽっとではメインプログラムである「子どもに見せたい舞台」シリーズを開催。0歳児から入場可能な演劇公演です。6ヶ所の区民ひろばでは、プロの俳優による「よみしばい」を実施。演劇に触れるきっかけをご用意します。また、アニメーション上映会や親子向けのライブなど、様々な企画も展開されます。子どももおとなも一緒にアートを楽しめる豊島区発の『としまアート夏まつり』に、今年もぜひご期待ください。


【プログラム】

◆子どもに見せたい舞台vol.13 おどる韓国むかしばなし『春春〜ボムボム〜』◆

https://toshima-saf.jp/2019/bombom.html

日程:7月20日(土)〜28日(日) 全10回公演

会場:あうるすぽっと

作:金裕貞(キム ユジョン)

振付・構成・演出:スズキ拓朗

▽お問合せ:あうるすぽっと TEL: 03-5391-0751

東アジア文化都市2019豊島 舞台芸術部門 スペシャル事業


◆あうるすぽっとプロデュース 育てる展示「ひがしあじあのちょうちんたち ―ちょうちん らんたん ちょろん―」◆

https://toshima-saf.jp/2019/chouchin.html

日程:7月20日(土)〜8月11日(日・祝)

会場:あうるすぽっとホワイエ/ライズアリーナビル1Fエントランスホール

▽お問合せ あうるすぽっと TEL: 03-5391-0751


◆アーティストとあそぼう!「ものと からだで あそぼう」◆

https://toshima-saf.jp/2019/mono-karada.html

日程:7月20日(土)

会場:ぞうしがや こどもステーション

アーティスト:目黒陽介、イーガル

▽お問合せ:NPO法人芸術家と子どもたち TEL:03-5906-5705


◆よみしばい『すずむしひめ』◆

https://toshima-saf.jp/2019/suzumushihime.html

日程:7月28日(日)〜8月18日(日) 全6回

会場:区民ひろば(豊島区内6カ所)

原作:手恷。虫 (いそっぷ社『手恷。虫の昆虫博覧会』より)

アーティスト:Theatre Ort

▽お問合せ:各区民ひろば


◆レトロ空間で楽しむ上映会「アニメーション・トラベル!」◆

https://toshima-saf.jp/2019/animation-travel.html

日程:7月31日(水)

会場:重要文化財 自由学園明日館 講堂

ナビゲーター:水江未来

ーーーーーーーーーーーーーー

\同日開催/「あそびパーク」

会場:自由学園明日館 芝生

ーーーーーーーーーーーーーー

▽お問合せ:NPO法人アートネットワーク・ジャパン TEL 03-5961-5200

豊島区 地域の文化活動拠点づくり事業

豊島区×自由学園明日館・東京第一友の会 FFパートナーシップ協定事業


◆親子で楽しむ ぷちライブ!「異国の楽器とうたのライブ!」◆

https://toshima-saf.jp/2019/gakki-uta.html

日程:8月24日(土) 

会場:ぞうしがや こどもステーション

アーティスト KAMOSU(かもす)

▽お問合せ:NPO法人芸術家と子どもたち TEL:03-5906-5705

豊島区 地域の文化活動拠点づくり事業



主催:としま文化創造プロジェクト実行委員会(豊島区、豊島区教育委員会、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、NPO法人芸術家と子どもたち、公益財団法人としま未来文化財団)


助成:一般財団法人地域創造、令和元年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業


▽としまアート夏まつりに関するお問合せ:

NPO法人アートネットワーク・ジャパン TEL:03-5961-5200 MAIL:info@toshima-saf.jp











Mailtrack


Sender notified by

Mailtrack
19/07/16 01:56:19



posted by アーツワークス at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2019年03月11日

『Le Père(ルペ\xA9`ル)父』








'19. 3. 6. 〆Le P┬re左矢印2ルペ\xA9`ル⇄幻〇


氏\x88槩左炒ĺ侘鳥唫廛薀兇ǂ襪櫞`と寄ホ\xA9`ル  





 勸弥倔\x98笋㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩\xEB\x96|奨椰\xD0g\x84\xA1\x88槪盤ク不左向き三角1㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩覬\xF8\x8E豈h羨椰\xD0g猟晒センタ\xA9`との慌揖崙恬による鍬\xD4U\x84,澄UJ岑屏が\xDFM佩する幻を\x8C\x9D嵆として宙くのではなく、\xD5J岑屏が\xDFM佩する幻の\x82箸厘\x95泣で宙いた恬瞳だったようだ。


 祇尖で、\xD3\x9B\x91\x9Bの詞\x9D瓩簣倏衣瓩垢\xEB\x95r\xE9g、繁麗ッが匯\x89笋靴討靴泙Φ談紊琳Ľ譴覆気覆匹㋣l竃していたわけだ。いずれも\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われ\xDFM佩するなかで龍わうことなのだろうとの\xBC{誼湖があり、よく竃栖た屮肖だとは房いつつも、方?の是雌と音芦と譛\x96Vに\xD2\x8A玲われ、この决\xE9Lにあるのが\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われた湖\xD2\x99なのかと\xD3Q\xBDKえて富?\x9A櫃ⓗ萁い澄左向き三角1覆鵑箸皺仗瓩遍炤靴世箸い\xA6\x9A櫃❹靴拭\xA3



 附除な繁の\xD7R\x84eができなくなる\xD5J岑屏纂宀の徊は方?の屮肖や啌鮫で\xD3Qて栖たが、繁麗委燐が是\xEByになる纂宀の\x82箸ǂ蚋\x8Aれば、广しく繁鯉議\xBDy匯湖を之いた徊で繁が\xBDUち\xACFわれてくるようになるのであれば、卷なるかなとの峐いが\x9Cイい拭Hǂ討里海箸⓲惨_かになるなかで、\x8F\x8Aがらずにいられない失の怎圷が肝?と溪われていくのだから、兀し篠せる音芦というのは、泌採ばかりかという\x9A櫃砲覆蕕困砲呂い蕕譴覆ǂ辰拭\xA3



 こういう屮肖を\xD3Qると個めて、ドキュメンタリ\xA9`啌鮫〆\x9A鞍佞❺▲襯張魯ぅ洫`〇は、寄した恬瞳だったなぁとの湖信が\x9Cイ唐W献▲鵐疋譴鰕櫃犬\xBF\x98鰈♤Δ湾圓Δ泙任發覆⊊錺▲鵐未鰕櫃犬身弝綢蚌秒世❶W訥蠅曚蒜阿睦Qたばかりの〆チルドレン〇に\xBEAいて、なかなかの挫處だと房った。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   左矢印2〆\xE9g処り繁の啌鮫晩\xD5I〇⇄

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   左矢印2〆ヤマさんのライブ\x82簍郗h〇⇄




posted by アーツワークス at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

'19. 3. 6. 『Le Père(ルペ\xA9`ル) 父』








'19. 3. 6. 〆Le P┬re左矢印2ルペ\xA9`ル⇄幻〇


氏\x88槩左炒ĺ侘鳥唫廛薀兇ǂ襪櫞`と寄ホ\xA9`ル  





 勸弥倔\x98笋㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩\xEB\x96|奨椰\xD0g\x84\xA1\x88槪盤ク不左向き三角1㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩覬\xF8\x8E豈h羨椰\xD0g猟晒センタ\xA9`との慌揖崙恬による鍬\xD4U\x84,澄UJ岑屏が\xDFM佩する幻を\x8C\x9D嵆として宙くのではなく、\xD5J岑屏が\xDFM佩する幻の\x82箸厘\x95泣で宙いた恬瞳だったようだ。


 祇尖で、\xD3\x9B\x91\x9Bの詞\x9D瓩簣倏衣瓩垢\xEB\x95r\xE9g、繁麗ッが匯\x89笋靴討靴泙Φ談紊琳Ľ譴覆気覆匹㋣l竃していたわけだ。いずれも\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われ\xDFM佩するなかで龍わうことなのだろうとの\xBC{誼湖があり、よく竃栖た屮肖だとは房いつつも、方?の是雌と音芦と譛\x96Vに\xD2\x8A玲われ、この决\xE9Lにあるのが\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われた湖\xD2\x99なのかと\xD3Q\xBDKえて富?\x9A櫃ⓗ萁い澄左向き三角1覆鵑箸皺仗瓩遍炤靴世箸い\xA6\x9A櫃❹靴拭\xA3



 附除な繁の\xD7R\x84eができなくなる\xD5J岑屏纂宀の徊は方?の屮肖や啌鮫で\xD3Qて栖たが、繁麗委燐が是\xEByになる纂宀の\x82箸ǂ蚋\x8Aれば、广しく繁鯉議\xBDy匯湖を之いた徊で繁が\xBDUち\xACFわれてくるようになるのであれば、卷なるかなとの峐いが\x9Cイい拭Hǂ討里海箸⓲惨_かになるなかで、\x8F\x8Aがらずにいられない失の怎圷が肝?と溪われていくのだから、兀し篠せる音芦というのは、泌採ばかりかという\x9A櫃砲覆蕕困砲呂い蕕譴覆ǂ辰拭\xA3



 こういう屮肖を\xD3Qると個めて、ドキュメンタリ\xA9`啌鮫〆\x9A鞍佞❺▲襯張魯ぅ洫`〇は、寄した恬瞳だったなぁとの湖信が\x9Cイ唐W献▲鵐疋譴鰕櫃犬\xBF\x98鰈♤Δ湾圓Δ泙任發覆⊊錺▲鵐未鰕櫃犬身弝綢蚌秒世❶W訥蠅曚蒜阿睦Qたばかりの〆チルドレン〇に\xBEAいて、なかなかの挫處だと房った。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   左矢印2〆\xE9g処り繁の啌鮫晩\xD5I〇⇄

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   左矢印2〆ヤマさんのライブ\x82簍郗h〇⇄




posted by アーツワークス at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2019年02月11日

現代地方譚6 アーティスト・イン・レジデンス須崎関連企画『須崎のまちの物語?』(リーディング公演)








'19. 2. 3. 現代地方譚6 アーティスト・イン・レジデンス須崎関連企画『須崎のまちの物語U』(リーディング公演)


会場:須崎市立市民文化会館大ホール(舞台上舞台)





 前作を観たのは、ちょうど一年前になるが、企画タイトルとしてチラシに記されている「現代地方譚6 そこに生き、そこに在る。」との言葉が示す、土地に残る生活感が宿っている点が好もしかった。





 だが、映画でもそうであるように「Uもの」にありがちな鮮度の減退や既視感からは今回の公演も逃れ難く、とりわけ駄菓子屋の老女が口にするリフレインが、ともすれば前回作品のなぞり趣向に映ってくる部分もあって、リーディング公演による読み手の好演には味わい深いものを覚えながらも、なんかパターン化のようなものを感じた。そのせいか、最後の「みかんボールガムの月」には感傷よりも笑いが浮かんできた。





 また、三話のうち一話は戦争の痕跡を残そうという企画的了解事項があったのだろうか。ある種の義務感的な現れ方をしているように感じられる部分があった。披露されたのは『みかんボールガム』(作・演出:サカシタナヲミ)、『洞窟と波の音』(作・演出:西本一弥)、『笑マストゴーオン』(作・演出:谷相裕一)というそれぞれのテイストが際立って異なる三作品。なにゆえ途切れ途切れに継ぎ接ぐ構成にしたのだろう。





 前作では、それぞれ聴き取った地方譚を繰り広げる合間を三人の女性の雑談めいた「まちの声」でつなぐ構成にしたことが功を奏して、須崎という土地が主題であることを鮮明にしていたけれど、それがなくなったために「まち」の部分が抜け落ちてしまった気がする。それぞれの聴き取り話それ自体に須崎特有の物語などを求めることは難しく、また、あまり意味があるとも思えない。普通の町に普通にありふれた“ちょっと耳寄りな話”があるのが地方譚なのであって、そういう話が「このまち」で拾われたものであることを示す部分は、むしろその話自体のなかにはなくて当たり前なのだと思う。前回公演の三作品でも、それ自体で堂々たる「須崎のまちの物語」になっていたのは『銀の海。銀の魚。』だけだった。





 今回は、個々の作品のいずれにも『銀の海。銀の魚。』のような「須崎のまちの物語」がなかったにもかかわらず、「まちの声」の部分まで除いたために「須崎」が抜け落ちたのだろう。三作品を途切れ途切れに継ぎ接ぐ構成を取れば、「まちの声」でつなぐ部分を除く外ないのは自明なのだが、敢えてそうすることで得られた効果があるようには感じられなかった。むしろ「まちの声」を失っただけではなく、テイストの異なる作品を途切れ途切れに継ぎ接ぐことで、せっかくの芝居の感興を分断することにしか、僕には作用して来なかった気がする。





 加えて、『みかんボールガム』だけでも前回ほどには感興をもたらしてくれなかった可能性のあるリフレインを、『笑マストゴーオン』での「めった、メリヤス、メリケン粉」で重ねつつ間に挟んでくることで、『みかんボールガム』での駄菓子屋の老女が口にするリフレインの効果を著しく減退したような気がしてならない。それぞれの演者(読み手)は各自のスキルに見合った力量をいかんなく発揮していたように思うし、聴き取りに材を得た話そのものには血の通った生活感があって、いずれも悪くない話のように感じたが、全体構成が僕の意に沿わなかったために前作のような感興は得られなかったのが残念だった。





(前回公演の観賞メモ)











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年12月30日

時々自動公演「コンサート・リハーサル」



時々自動40年の軌跡 (奇跡?)と新たな可能性が渾然一体となった最新作が3年に亘る準備期間を経てついにみなさまの視界の中央に出現します。 



「時々自動」を名乗る前衛劇団が企画したシアトリカル・コンサートの前日、最後のリハーサル現場で起こる不条理な出来事の数々。



 時代の濁流を時々自動18人の仲間と筏で遡る奇才朝比奈尚行が、フェデリコ・フェリー二の『オーケストラ・リハーサル』に触発されて発案したソーシャリスティック・アヴァンガード・エンターテインメント。さまざまな未聞のアイデアで彩られた午睡の妙夢にも似た1時間40分です。千客万来!



 



◆会場



KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ



 



◆スケジュール



228() 1930分★



31() 14時◎★ 1930分★



32() 13時★ 18時★



33() 12時◎ 16



 



*開場は開演の30分前



★アフタートーク開催。詳細はウェブサイトで発表します。



◎託児サービスあり。公演一週間前までに要予約・有料・定員制



お申込み:マザーズ0120-788-222 (平日10時〜12時、13時〜17)



 



◆チケット (日時指定・全席自由・税込)



前売:一般 3,800円 



ペア:7,200円 



U25 (25歳以下)2,800円 



高校生以下:1,800



 



*当日券は各種ともに+500 (ペアチケットは前売のみ)



*未就学児入場不可



U25、高校生以下は当日受付にて証明書提示



*車椅子でご来場の方は事前に時々自動までご連絡ください。



 



◆チケット取り扱い



【時々自動】



予約フォーム https://www.quartet-online.net/ticket/tokidoki-konriha2019



mailtickettokidoki-jido.com  (■を@に変えてください)



*氏名、観劇日時、券種、枚数をお知らせください。



 



【チケットかながわ】



http://www.kanagawa-arts.or.jp/tc/



tel0570-015-415 (10時〜18) 



窓口:KAAT神奈川芸術劇場2F (10時〜18)



 



【チケットぴあ】



tel0570-02-9999 (Pコード:491255) ※一般券のみ



 



◆出演



朝比奈尚行 宇佐美とよみ 岡本唯 岸山絵美 鈴木光介 砂川佳代子 高橋牧 日高和子 渡辺直美



伊地知一子 柴田暦 高野真由美 高橋千尋 三井耶乃 和久井幸一



BUN Imai チカナガチサト



浅香舞衣 荒木亜矢子 伊野香織 景山思保 加藤真悟 上条拳斗 木内里美 小林あや 渋谷采郁 須田彩花



武田有史 橘 麦 都田かほ 深堀絵梨 松島州伸 丸山港都 宮田幸輝 村田実紗 山石未来 吉川みのり



 



◆スタッフ



【構成・演出】朝比奈尚行



【音楽】朝比奈尚行 今井次郎 鈴木光介 



【美術】宇佐美とよみ



【映像】朝比奈尚行 和久井幸一 



【照明】齋藤茂男 是安理恵



【音響】島猛



【舞台監督】横沢紅太郎



【演出助手】~野真理亜



【企画・制作・主催】泣eィコ・ディコ  



【提携】KAAT神奈川芸術劇場



【助成】アサヒグループ芸術文化財団



【協力】魚谷彩会 (ZON) 大山笑吾 舘野百代 飛田ニケ 西邨紀子 藤田真砂子 前澤秀登 横山展子



Diamond Rush e-factory 山田ジャパン 蔵プロダクション



 



「コンサート・リハーサル」特設サイト



https://concertrehearsal.wixsite.com/tokidoki-jido



posted by アーツワークス at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年12月16日

シアターTACOGURA#17 子どものための12月「クリスマス・キャロル」








'18.12.15. シアターTACOGURA#17 


子どものための12月「クリスマス・キャロル」


会場:蛸蔵  





 ゼメキス監督による3D映画『Disney's クリスマス・キャロル』を観たのは、いつだっけ?と辿ってみたら、9年前だった。「画面は本当に見事なものだった。流石だ。」と日記に綴っているディズニー映画と比べるのは全くのお門違いなのだが、貧相には見えない舞台に仕上がっていて感心した。


 衣装と化粧の頑張りがイチバン貢献しているように思ったが、「子どものための」との触れ込みに相応しく、1時間に収めた手際にも感心した。


 還暦の僕が生きて来た60年間を振り返っても、この20年ばかりに、拝金主義の蔓延りと社会の酷薄化が極端に進んだように感じているから、この実に普遍性に富んだ前々世紀の古典をいま再演することの意味を強く感じる。



 ボブ夫婦やスクルージの妹に、恵まれない子どもたちへの支援活動を敢えて込めていたあたりには、作り手の社会意識が窺えるように思われた。会計士ボブ(山田憲人)が、「クリスマスで得をしたことはないかもしれないが、いいことは起きる」と言っていたのが印象深く、「いいこと=得すること」ではないというのは、人生観として、とても重要な部分だという気がする。


 それにしても、精霊の色鮮やかさに感心した。成長期に相応しい緑色が鮮やかった過去の精霊(行正忠義)に見せられた少年時代、人の生において大事なものを焼失しているかのような今のスクルージ(山岸信幸)に、立ち上る炎の如き立ち居振る舞いの現代の精霊(畠中昌子)が見せていた人生の真実、己が人生に悔恨と反省を抱いたがゆえに不安に駆られたスクルージに相応しい黒で包み隠された内に潜んでいた純白の未来の精霊(伊澤由樹恵)といった対照が、なかなか効いていたように思う。思えば、会計士ボブの夫人(伊藤麻由)のリボンも僕の好きな緑色だった。舞台装置を思い切りシンプルにした分、衣装でイメージ喚起を狙った演出は、僕にとっては、上手く作用してきているように感じた。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


    (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

    (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年11月25日

からくり劇場公演No.3『歌わせたい男たち』









'18.11.23.     からくり劇場公演No.3『歌わせたい男たち』

会場:蛸蔵




 永井愛の作品は高知市民劇場で'00年に二兎社による『パパのデモクラシー』を観て以来、同年のテアトル・エコーによる『ら抜きの殺意』、'14年のグループる・ばる による『片づけたい女たち』を観ている。『ら抜きの殺意』については、からくり劇場を主宰する松田昭彦や今回、校長の与田を演じた谷山圭一郎が属していた演劇センター'90による'07年の公演( http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/11-18.html )でも観ていて、かなりお気に入りの作家なのだが、十三年前の作品となる本作も実に観応えがあった。




 今の世の中の空気を作ってきたものが何なのかを噛み締めるうえでも、改めて取り上げるに足る作品だと感銘を受けた。根強い反対世論を押し切って法制化された国歌「君が代」自体の是非はともかく、改革の名の下に教育現場を蹂躙した石原都政での東京都教育委員会の問答無用の締め付けのもたらしたものがよく捉えられていたように思う。報道等で見聞した範囲でしかないが、本作に描かれた出来事は全て思い当たるものばかりだった気がする。君が代も日の丸も口実でしかない感じがひどく不快だった覚えがある。それなのに、表立っては国旗国歌の部分での応酬をせざるをえないものだから、どんどん捻じれ歪んでいっていたように思う。




 石原慎太郎は『太陽の季節』の映画日誌( http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2014j/25.htm )にも記しているように、僕の最も嫌いな人物なのだが、その石原都政化で起こったことを垣間見ることが、今また現政権の画策している強引な憲法改定が何をもたらすか示唆しているようで不気味だった。




 単なる法制化で、国会では絶対に強制などはしないとされたものでさえ、国が直接強制しなくても東京都が全国に範を見せるのだと息まく足場を作り、地裁で不当判決が出されても最高裁で覆して、世の中の空気を変えてきたのだから、ましてや憲法なのだ。本作でも焦点は「君が代」ではなく、憲法第19条だった。自民党の憲法改正推進本部が示している平成二十四年改正草案でも手が入っていて、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」として国権を縛っていた表現から「思想及び良心の自由は、保障する」となっている。言葉巧みに、侵害を理由に異議を申し立てることが封じられ、国権側が保障の形を決めることのできる文言に変わっている。どんな形であれ、一定保障していることさえ示せば、憲法違反を問われることがなくなる条項に形を変える草案にしたわけだ。本作の終盤で与田校長が屋上から演説していた最高裁判決の趣旨そのものだと思った。




 だが、そういった事々よりも当夜の芝居を観ていて、最も心打たれたのは、国歌斉唱強制への抵抗を貫こうとする社会科教師の拝島(刈谷隆介)とお国訛りが通じ合う元シャンソン歌手の新米音楽教師(小野純子)が、拝島のために♪聞かせてよ愛の言葉を♪を歌い、それに応えて拝島が眼鏡を外して置いて出て行く場面だった。歌というものは侮れない力があるとしみじみ思う。♪暗い日曜日♪は、エリカ・マロジャーンの出ていた同名映画のサントラCDも購入している曲だし、♪パダンパダン♪もなかなか強烈で印象深い歌だ。そう上手には歌われていなかったのに、却って迫ってくるものがあった。




 また、若い英語科教師(中城賢太)とは明らかに異なる苦衷を抱える与田校長が、決して変節漢には見えてこないことが重要なだけに、谷山圭一郎の配役がとてもよく嵌っているように感じた。そして、社会の軸足が変わってしまうなか、ぶれないでいるだけで「軟弱な…」から「ガチガチの…」に変わってしまった世の中のほうの変節に抗う頑なさのなかに、殊のほか重要な“誠実さ”をきちんと宿らせていた刈谷隆介にも感心した。




 すっかりオカシナ世のなかになってきている状況を踏まえてか、当日配布リーフレットにご挨拶として「劇団のイデオロギーについて」と題し、「…劇団として特定の思想やイデオロギーを持っているわけではありません。…純粋に作品として楽しんでいただければと思います。」というような妙なエクスキューズも添えなければいけなくなっているのが今の状況なのだ。だが、本作は、イデオロギー的な捉え方のできる作品であると同時に、イデオロギーとは別のところのヒューマニズムにおいて看過できない問題を最も強く訴えている作品であり、いま何かと喧しいブラック企業の問題などにも通じる話なのだ。そういう意味でも、志ある作品選択に感銘を受けた。




 そして、激しい論争の長台詞の続く芝居のなかに、緩衝材として元シャンソン歌手の音楽教師が配されていて、シャンソンのみならず、お国訛りの件も含めて、それが十分以上に機能していた気がする。なかなか大したものだと思った。
















  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年10月20日

高知演劇ネットワーク演会プレゼンツ“演劇実験空間 蛸蔵ラボvol.5”









'18.10.13.〜14. 高知演劇ネットワーク演会プレゼンツ“演劇実験空間 蛸蔵ラボvol.5”

会場:蛸蔵


 今年のラボは、自分がスタッフの一員を担うシネマの食堂と被ったので、二日目の上演プログラムしか観られなかった。4演目のうち3演目が学生によるオリジナル作品で、残る一つが1月に須崎で観た『銀の海。銀の魚。』だった。


 最初に観た高校3年生の作・演出・出演による独り芝居である一弦の琴『そういうきもち』は、公演チラシに記された『HOPE』から改題されている分、ニュアンスが変わってきたのだろう。自転車を漕ぎ出す場面は、いいアイデアだなと思った。


 舞台屋ナスカによる『奇譚の蔵』は、怪談との触れ込みだったが、あまり怖い感じのないたわいない話に過ぎない感じが残ったように思う。前説では、ひとつ実話ネタがあるとのことだったが、それは、母親だったことに驚いた話だったりするのかなと思った。


 大学生のユニットてんかぶつによる『青と赤』は、青靴下の姉と赤靴下の弟による紫の好きな母親の話だったが、何をしたいのか今一つピンとこなかったように思う。犬にちょっと惹かれた。


 須崎のSに続くユニット「→T」による『銀の海。銀の魚。』は、大人による演目だからというのではない台本の良さが際立つ作品で、再見にもかかわらずグッとくるものがあった。役者7人のうち主たる野村春菜、丸山良太に変わりはなく、中平花、島巻睦美、岩井美樹、作・演出も担うサカシタナヲミが加わっていたが、9か月前に観た時よりも歯切れがよくなっている気がした。それによって、先の公演の備忘録でも触れた坂本ふみ(野村春菜)の到達した人生観のもたらす味わいがより感銘深くなっていたように思う。ほんとにいいホンだ。やはり年季を重ねた方の肉声を元にしているからだろう。それにしても、うまく構成したものだ。リフレインが実に利いているのは、その構成のお陰だろうと改めて思った。

 今回の公演がより味わい深くなっていたのは、公演備忘録に「せわしくも同じ日々を繰り返す単調を効果的に描出していたリフレインが利いていて」と記したその部分の洗練度が増していたからのような気がする。


 ただ、回を重ねて観てくるにつれ、「演劇実験空間」とする企画コンセプトにおける実験性というのは、何をもって冠していることなのだろうという素朴な疑問が湧いて来たりもした。








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

    (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

    (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年10月02日

東京キャラバン in 高知“KOCHI KARVAN 夢幻行脚?”









'18. 9.16.  会場:県立美術館・中庭


 知り合いからの誘いも受けたし、観覧無料だし、と出向いたのだが、まるでピンとこなかった。KUTVで放映されていたローカル長寿番組『歌って走ってキャラバンバン』をもじった運びで“高知のスゴい文化”たる参加アーティストとして、山田太鼓伝承会やカポエイラ バトゥーキ ジャパオ高知、高知県庁正調よさこいクラブなどを紹介していく舞台構成で始まった公演を観ながら、なんだかなぁと思ったのだが、その後も観続けているうちに、高知の文化素材を使って“創造しているのではなく消費している感じ”のようなものが湧いてきた。


 そもそもこれは何なのだろうと思って、帰宅後、当日配布されたリーフレット「TOKYO CARAVAN 2018」を読んでみると、そこに記された野田秀樹の言葉に、東京オリンピックに便乗した太鼓持ち企画だったのかと妙な納得感を覚えた。だいたい“東京キャラバン”などというネーミングからして気に食わないという気がしてきた。


 それにしても、チラシに記された“高知のスゴい文化”としての抽出は、どんな基準のもとに、誰がどういう形で行ったのだろう。リーディングアーティストとしてクレジットされている木ノ下裕一の示した基準に沿って高知県文化財団が提供した情報をもとに、木ノ下が選定したというのが順当な線だと思うのだが、もしそうだったとしたら、公演以上に、木ノ下の示した基準とそれにより県文化財団が提供した情報のほうが、より興味深いように思われた。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年09月10日

'18. 9. 7.  ハイバイ公演『て』









'18. 9. 7.  ハイバイ公演『て』

会場:県民文化ホール・オレンジ


 何とも掴みどころの無いタイトルの芝居だが、中身そのものも何だか据わりの悪い後を引く感じが残ったのは、まさしくそれを作り手が企図しているからではないかと思った。大黒柱のない家の柱が地に着かず宙吊りになっている不安定な柱構造の舞台装置が利いていて、時に家が傾きつつも柱は素知らぬ顔で垂直のままだったりしているところが意味深長で、微妙に異なるリフレイン構成にして同じ場面を二度描いている意匠が目を惹いた。

 しかし、無闇に挑発し合い攻撃的になる家族関係の生々しい毒舌や威嚇の言葉を聞きながら、少々辟易としてきたのは、ひと回り目の二男次郎(田村健太郎)の長男太郎(平原テツ)に対する物言いや、長女よしこ(安藤聖)の次女かなこ(湯川ひな)に対する強迫に、独善的で思い上がった自己拡張と威圧を感じ、その根幹にあるものが血縁関係へのネガティヴな甘えに他ならないように感じたからだろう。作・演出の岩井秀人は、家族に対して只ならぬ確執や屈託を抱えているのではないかという気がしてならなかったが、アフタートークで、図らずも率直にそのことを披瀝していて驚いた。

 暴力的な父親のもとに育ち、うまくいかない家族が、認知症の祖母が92歳で亡くなった際の葬儀のときに久しぶりに一堂に会していがみ合ったという話は、岩井秀人の家の実話そのものなのだそうだ。実際の牧師は、舞台に登場した牧師(松尾英太郎)以上にひどい有り様だったけれども、あまりのことに現実味がなくなりそうで緩和したというようなことも語っていたが、本当にそうだったのだろうか。開幕早々から矢鱈と牧師に毒づいていた次郎のファナティックなまでの自己拡張キャラを印象づけるためだったような気がしてならない。そして、怪しい牧師同様にヘンな人としてコンビニ店員の話をしつつ、それに逆上してコンビニで暴れたという自身のことをホンにしてNHKで作品にしたとも語っていたが、それが事実なら店員のキャラ以上にオカシナ人物だとしか思えない気がして、騙りのような気がしてならなかった。それとも、そういうヘンな人は類が友を呼ぶようにして本当にヘンな人ばかり呼び寄せるのか、それとも、本作が示していたように、ヘンに映るのは岩井のほうがヘンだからこそで、別の目には必ずしもそうは映らないということなのか。

 アフタートークの話ではどうやら父親は外科医らしい岩井が、暴力的な父親のもとに育った自分の家の話だと解題していた本作において、家では「て」を出し金を入れない父親としていたことについても、そういった部分が家族からの台詞でしか語られない父親(猪俣俊明)の客席の目に映る人物像は、本作に登場した男三人女三人の六人家族のなかで、ある意味最もマトモで激することのない人物だったような気がする。アフタートークで何に対しても明快饒舌に語っていた岩井が唯一、言葉を濁したうえで元々は祖母菊枝(能島瑞穂)が手にしていた義手のことだと言っていたけれども、実は前述した意味合いでの「て」であり、もっと言えば、目に映るものが全てではないと同時に、映る目にとってはそれが全てであることを現出させる手段としての「て」だったりするのかもしれないなどと思った。そして、アフタートークで開陳しているようで幻惑しているように映るトークも、岩井の「て」なのかもしれない。








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年08月28日

'18. 8.26. おさらい会リーディング公演vol.03『生きてゐる小平治』









'18. 8.26. おさらい会リーディング公演vol.03『生きてゐる小平治』

会場:西村謄写堂本社社屋


 名のみぞ知れど舞台でも映画でも本作を観たことのない僕には、これを怪談というなら、第一幕の郡山で殺されたように思われながらも十日後の第二幕において満身創痍で江戸に現れるばかりか、第三幕の旅装での二人になお付きまとう小幡小平治(山粼千啓)なんぞよりも遥かに、おちか(伊藤麻由)の怖さこそが怪談だと思った。歌舞伎役者の小平治と“長年の馴染”である囃方の那古太九郎(山田憲人)の二人ともから、“心の弱い気の優しい女”“やさしい気の小さい女”だと言われつつも、第二幕の最後では太久郎を焚きつけ「咽喉を、咽喉をもう一ツ。」とまで言っていた魔性に恐れ入った。


 タイトルこそ小平治がメインなのだが、このおちかをどういう女性として造形するかが本作の演出上の要になって来るように感じた。第一幕で太久郎が小平治を挑発したように、分相応の役者狂いに過ぎない女房の淫事(いたずら)だったのか。或は、小平治が言うように心底惚れ合っていて、第二幕では「生きられるだけ生き、時が来たら一緒に死にましょう。」とまで言っていたことも紛れなく真情として持っていたのか。そのいずれなのか、はたまた両方なのか。


 おちかの声の聞こえない第一幕と小平治の声が聞こえない第三幕を観ながら、僕の好みとしては、やはりその両方ともが真実であればこその女の怖さが浮かび上がる芝居であってほしく思ったのだが、その意味では、おちかの気の強さや性悪が強めに色づけられているように感じられた点が、やや気に沿わなかった。


 江戸に戻ってきた小平治から「女敵の太九郎を殺した」と告げられたのが嘘だったことに対して「小平次さん。お前は拵え事をしたのだね。太九郎を殺したなんて…まあなんというひどい嘘をいったんだろう。」という台詞にやや怒気が滲んでいるように感じられたのだが、ここは怒気よりも驚きと哀しみであってほしかった。そのうえで、思わぬ顛末に狼狽したまま答えを出しかねているうちに太久郎が刃傷沙汰に及んだことで、自身が答えを出す前に状況が追いやった事態に自分を乗じさせる勢い付けとして「そうだ。うまく行った。嘘つきめ! 咽喉(のど)を、咽喉をもう一ツ。」と囃し立てたと解したいところが僕にはある。小平治の側に行きかけながらも当てがなくなりそうになると太久郎の元に戻るしか身の置き所を見い出せない女の哀れの浮かぶ風情が欲しかったように思うのだ。


 そのためには小平治から「早く殺せ!」と迫られながらも「許してくれ。………。おれには殺せない。ああ、おれは恐ろしい」と震え、「おちかは貴様にやる。きれいにやる。連れていけ」とまで言っていた太久郎が矢庭に小平治に切りつけたことに対する驚愕と、その発端が自身の洩らした「太九郎どの、お前、わたしと別れるのかい」との言葉によるものであることへの怯懦が漂っていないといけない気がする。同時にそれは、太久郎が第一幕で「おちかに惚れているのはおれも同じだ」と言っていた言葉が単に小平治への対抗心からのものではない真情であったことの証としても現れなければいけないように思うのだが、そういうニュアンスが少々乏しかったように感じる。


 そして、太久郎がいないとなれば小平治と生きようと思い、小平治が殺されるのなら太久郎に加担することに躊躇の無いおちかには、独りではいられない頼り無さこそが全てなれば、第三幕での「連れて行っておくんなさいよ。お願いだから捨てないで…。」が、それこそ“色の諸分、濡れの手管”ではない女の真情として宿っていないといけないように思う。そうでないと、まさに「ほかに惚れた男のある女で、腹のくさった女房で、亭主の面に泥をぬる売女」になりかねないことになって興醒めてしまう気がする。


 やはり小平治と太久郎がともに“心の弱い気の優しい女”“やさしい気の小さい女”と言ったままの女性であることのほうが、女の怖さと倫ならぬ色恋のタチの悪さが浮かび上がってくるのではなかろうか。だから「なんでもわたしのせいにするのだねえ」とのおちかの嘆息には、恨みがましさの微塵もない哀しみが宿っていなければいけないように思う。


 演じた役者は三人とも声がよく、また声に力もあって語りがよく響いてきた。昔言葉の響きにある色気をなかなかよく感じさせてくれていたように思う。効果音などの音響効果が備わると、恐らくラジオドラマを聴いているような感じが漂ってくるのではないかという気がするが、リーディングだとやはり言葉が前面に出てくるように感じる。これはこれで悪くないものだと改めて思った。












   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html


   (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年08月10日

'18. 8. 5. タネマキカク第1回公演『「…」』









'18. 8. 5. タネマキカク第1回公演『「…」』

会場:蛸蔵


 もう何年も打っていない気がするが、ひと頃は毎日のように囲碁に興じていたから、久しぶりに碁盤に高らかな石音を立ててみたくなった。高知公演に寄せて脚本家【久野那美(Fの階)】が「囲碁劇を作ろうと思いました」と記しているように、利き石が重荷になったり、死に石が甦ったり、手順を重ねることで局面が変わり、同じ場所に置かれたままの石の持つ意味が変化していく“囲碁”というものを意識した造りにはなっていたが、囲碁を「点転」との名称に転じ、盤上競技と言いながら、盤の大きさに規定がないなどという無体な競技にしたうえで、いささか見苦しい作家的自意識に囚われた小説家を名乗る紙袋を持つ男(オカザキケント)を造形した脚本を第1回公演企画として取り上げることにしたのは、何ゆえだったのだろう。


 物語としての面白さという意味では、僕の感想はまさにタイトル通り「…」でしかないのだが、黒い靴の女(上村彩華)を配したものと白い靴下の男(吉良佳晃)を配したものとの二つのヴァージョンを構えていたことで対照される違いがなかなか興味深い公演になっていたところが面白かった。先に観た“黒い靴の女”版だと、紙袋を持つ男と何も持たない女(柴千優)という「点転」側の人物、言うなれば作家側の拘りのほうに重きが置かれ、後から観た“白い靴下の男”版だと、最後に窓辺から外を眺めていた二人の非「点転」側の人物の姿が示すように、言うなれば読者ないしは観客の側に重きを置いた作劇になっていた気がする。僕の好みは断然、“白い靴下の男”版だ。火葬場の控室にきちんと扉を開けて入ってきていた黒い靴の女と違って、独り靴も履いていない靴下姿で客席側から現れた白い靴下の男が、小説家の漏らす取るに足らない不満とか、考えを変えて露にしていた慢心とかを一喝すべく、彼とは旧知の間柄だったらしい故人となった女性があの世から遣わした者のように思えたからだ。


 十七年前に故人と別れ、地元を立ち去った小説家にそのとき何があったのかは明かされないが、おそらく二人は昵懇の間柄だったのだろう。男が小説世界のなかで創造したものに惹かれ認め、実際に現実世界のなかで女が展開し始めたことに離別の原因があったような気がする。その核心は、男の器の小ささだったのではなかろうか。そもそも十七年前の時点で、既に十冊を超えるだけの著作を刊行している小説家だとは思えないような文句と強欲を“何も持たない女”にぶちまけるようなセコイ男なのだ。もっとも、白い靴下の男や黒い靴の女の読んでいた『転がる点』ではなくて、窓の外を見ている女(山田紫織)の読んでいた『弔』に書かれていたものが本作「…」だったりするのであれば、話は少々異なってくるのだが、流石にそれはアンフェアというものだ。


 どうにも残念だったのは、紙袋を持つ男が、どう観たって十七年前に既に十数冊の作品を上梓している小説家には見えないことだった。演出プランとしての設定年齢は何歳だったのだろう。少なくとも中高年には至っていないといけないように思うが、どうもそういう意識で演じているようには映って来なかった。それなりに相応の老けメイクを施していないと、現実感に乏しい物語世界の不思議感の際立ちが削がれてしまって出鱈目感のようなものが立ち上がってきかねない気がした。こういう作品なればこそ、大事なことのように思う。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

  (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

  (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年07月29日

【演劇祭KOCHI 2018】









会場:藁工蛸蔵


'18. 6. 3. 劇団まんまる【徳島】 第4回公演『吃音ヒーロー』

'18. 6.10. カラクリシアター 『エデンの月』

'18. 6.17. TRY-ANGLE act.28 『ライフレッスン』

'18. 6.24. パッチワークス第5回本公演 4都市ツァー【愛媛】『「∩」積集合』

'18. 6.30. 立本夏山ひとり芝居【東京】 『智恵子抄』

'18. 7. 7. 劇団シャカ力 『ギラギラ薬局』

'18. 7. 8. アフターエンカイ




 今年の演劇祭KOCHIもまた県外からの参加劇団が3つあったものの、ラリー参加公演数は6と半減してしまった。連年参加も昨年から2団体減って3団体となり、シャカ力、TRY-ANGLE、劇団まんまる【徳島】となってしまった。事務局団体を担っているシアターホリックが演劇祭参加から外れた事情には劇団員不足もあったようだ。また、かつては公演参加劇団に義務づけられていたように思うPPT(ポスト・パフォーマンス・トーク)をプログラムに構えている劇団がシャカ力と徳島からのまんまるだけになってしまっているのは、とても残念だ。PPTやアフターエンカイを盛り立てていくことこそが、地道ながらも観劇ファンを育て広げることになるように思うのだが、何年か前にアフターエンカイが劇団交流のほうにシフトしたことでの得失の感じられるものになっていたような気がした。





 演劇祭開幕公演は、県外から三年連続で参加している徳島の劇団まんまるが初の長編劇に挑んだという『吃音ヒーロー』だ。

 笑いや幸福感を得ると体が衰弱し死に至るというアベコベ病を娘オルカ(東條優紀)が患ったことによって、領主ドルフ(鵜戸昌実)が芸術や笑いに禁制を掛けてしまったワイトリーユという町を、吃音の劇作家キツオ(小川真弘)と演出家ニナオ(大木茂実)率いる旅芸人が訪ねる設定になっていたが、そんな統制などなくても言いたいことをきちんと言えなくて口籠らずにいられなくなる世の中が近づきつつあるということを意識しているような気がした。そのことに対しては、オルカを慮って(近ごろ流行の言葉で言うなら“ソンタク”であろうが)笑いが封じ込められることを、当のオルカは決して求めておらず、むしろ死に近づこうとも笑いと幸福感のほうを求めていたことが明示されていた点が気に入った。

 だが、PPTで聴いた話からは、作者の丸山裕介【サーディン】は、そういう社会的な潮流のようなことよりは、もっと普遍的な弱者の声としてキツオの吃音をイメージしているようだった。そのほうが穏当なのかもしれない。そういうパーソナルな部分に向ける視座からすれば、確かに小川真弘が語っていたように、生きていてこその人の命なのだから、オルカに芝居を観られてしまったことを悔いるキツオの心情というのもあり得るなと思った。

 でも僕は若い時分から、やはり「人はパンのみにて生くる者に非ず」と考えるほうだし、還暦も過ぎるともっと身近な問題として寝たきりだけの生活で生き延びたくはないとの思いが強くなっている。人の死生観はさまざまあって然るべしだと思うけれども、僕は、幸福な生が得られぬのならば、惨めな生よりも幸福な死のほうが望ましく感じるので、オルカの最期を肯定的に捉えたいと思うし、本作の設定からすれば、まさに然るべき結末だったように思う。あえて吃音の劇作家を設けていることに対して、社会的な潮流に対する意識を読み取ったものだから、余計に僕にとっては、そこは“必然”とも言える部分になってしまう気がする。

 妙に可笑しかったのは、イールを演じた藤本康平のモミモミ,クリクリ,スリスリの手付きとそれを目にして如何にも嫌そうに憤っていたオルカを演じた東條優紀の表情だった。第3回公演『出航!まんまる丸! in 高知』の『ニシン』で見覚えのある股間から長く伸びた逸物ウマも劇団まんまる印みたいで可笑しかった。また、おしなべて皆、声と発声がいいように思う。叫びがちゃんと叫びになっていて耳に障らないことに感心した。レティシアを演じた清水宏香は麻生久美子に声が似ているように思った。  




 カラクリシアターによる『エデンの月』では、貴志(おっかん)の言っていた“ひと夏の恋”の思い出ひとつできないことと、美月(YU☆KI)が見舞われていた記憶の喪失はあっても身体に深く刻み込まれた生の痕跡を得ていること、劇タイトルが示すようにアダムのあばら骨から作られたイヴのごとき存在として星野大地(かりらり)が二十年ものあいだ囚われ続けている美月への執心の、いずれが人にとっての幸いなのだろうなどと思いながら、お気に入りの映画『コキーユ 貝殻』( http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2000j/04.htm
)['98]を思い出した。

 いささか腑に落ちなかったのは、太陽の光を見ることができないからの夜のプールでの事故があり美月の記憶が喪失したように思うのだが、記憶のメタファーとしてのあばら骨をDr.梅内(からくり敬三)によって抜き取られたことで「うさぎ病」という記憶喪失のメタファーに見舞われ、あばら骨の適合移植が必要になっているという美月の事情との不整合だった。だが、星野大地もまたDr.梅内のもとを逃走した者として語られていたようでもあり、さすれば、Dr.梅内というのは創造主たる神のメタファーなのかということにもなる。だとすれば、どこか映画『神様メール』(
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2017/27.htm )['15]にも通じるニュアンスを帯びてくるような気がする。

 しかし、作者(谷山圭一郎)としてはそういった宗教的な関心はあまりなかったのではなかろうか。それよりも“最後の怪優”を看板とする役者のために、前作『路地裏のメモリー』でのDr.パピーに相当するキャラクター造形が必要だったような気がする。それにしても、芝居というものは面白く、また難しいものだ。『コキーユ 貝殻』を想わせる「十六歳の時の恋とその思い出」を主題とみるならば、本作のDr.梅内や、掏れないものは何もない神業スリ師の梅子(まるみ)の存在は、物語的に必要ないのだが、これは一体何者なのだと観客の視線を惹きつけ、その意味するところに観客の思いを引き寄せる仕掛けとして物語を牽引するうえでは、その怪優ぶり怪演ぶりが思いのほか有効に作用しているように感じた。少なくとも同じ手法を映画で講じても、よほどの芸達者が担わなければ、観る側を納得させられないような気がする。

 また、最後の喪服での葬送と思しき演出からは、束の間取り戻した記憶の共有により三十六歳で心中したと思しき、美月と大地なのだが、YU☆KIの演じる美月に三十六歳は無理としか思えないのに、その醸し出すある種の透明感が十六歳以降、世間に出ることもないサナトリウム暮らしをしたことでの世間擦れのなさとして、違和感をもたらさないどころか役柄に嵌っているように感じられたことが興味深かった。これもまた、舞台なればこそのことのような気がする。




 TRY-ANGLEの演目にいかにも相応しく、二匹の兎の名がアリスとテレスになっていた『ライフレッスン』は、開幕前の舞台を観て、役者の入退出は客席側から行うのかと思ったほどにぎちっと舞台装置が組み込まれていた閉塞イメージからすると、少年(三上綾佳)の父親(領木隆行)以外の人物は全員、引き籠りになっている少年の心中に立ち現われてきた者ばかりだったということなのだろう。とりわけ重要なのは、少女(山本優依)の存在なのだが、後段のライフレッスンの模様からしてもリアルの訪問は一度もなかったのだろう。

 また、大学紛争当時のものの引用と思しき台詞があったり、少年の父親が息子の恋愛対象の理想イメージとして微かな笑窪のかわいい“檀ふみ”などと言ったりする一方で、最後に携帯型のビデオカメラによる撮影場面が登場することから、いったいいつの時代の作品なのだろうと訝りつつ、小学生の引き籠りやLGBTを扱った題材の現在性に瞠目させられるようなところがあった。

 少年が主人公だが作者は女性だし、もしかすると檀ふみの件は、女の子らしくないなどと言われていたのかもしれない作者がかつて父親から言われた実体験に基づくものではないかなどと想像して帰宅後に検索してみたら、奇しくも還暦を迎えたばかりの僕と同じ生年だった。それなら、大いに得心がいく。作品は、'90年代のはじめのほうのもののようだ。ホームビデオも既に普及し小型化していたように思う。さすれば、モチーフの先進性にはかなりのものがあると改めて感心した。

 しかし、そのこと以上に響いてきたのは、当日配布のリーフレットのあらすじに記載されていた「大事な人が消えていく度に、大事な物が消えていく度に学んだ、生きていくためのライフレッスン」との記述で、あの些か面倒臭さが強すぎる父親の元を去って行った母親(登場しない)や亡くなった愛犬(墓標のみ登場)に対する喪失感が少年にあったにしても、リーフレットの制作に名前がクレジットされている前田澄子さんが先月に満26歳の若さで亡くなっていることを知っている身には、そのことを抜きには観られない作品でもあった。

 本作の11歳になったばかりの少年が、人の状況は十年ごとに変わっていくとして、二十歳の自分、三十歳の自分、…六十歳の自分、その後の自分を夢想するという形で、未だ生きていない時間を少女とともに演じるライフレッスンを観ながら、非常に複雑な思いに駆られた。この舞台を演じ作っていた劇団の仲間たちの心中にはいかばかりのものがあったことだろう。




 松山の劇団パッチワークスの企画による4都市公演での高知の演目は、ティッシュの会【大阪】による『にぎる』、World Wide Works作品『風習』のシアターホリックによる上演【高知】、島根県雲南市の劇団ハタチ族による『10万年トランク』、そして、パッチワークスによるタイトル不詳作だったわけだが、その積集合に当たる部分は何なのだろうと振り返ってみると、スタイルはそれぞれ大きく異なっていたけれども、いかにも若者らしい“生への問い掛け”があるように感じた。

 最も面白く観たのは最後に置かれたパッチワークスの演目だったように思うが、それでも、4作品120分余を観て、もっとも印象深く残るのが中島みゆきの♪ファイト!!♪の言葉だったりするのはどうよと思わぬでもなかった。ただ、パッチワークス主宰の村山公一が演劇とは何か、ということに関して、舞台と役者と観客があれば成立するものとの言葉を引用して、ステージ前に観客の象徴に見立てた空の椅子を置いたことで、これまた如何にも定義のしにくいフーゾクなるものが何だろうということに対し、客とフーゾク嬢と風呂なりベッドなりの場があれば成立するものとして示しているようにも思えたことがちょっと面白かった。




 東京から初参加した立本夏山のひとり芝居は公演チラシが喚起していた野性的イメージとはまるで異なる精神性の高いステージで、大いに意表を突かれた。若い時分に手にした『高村光太郎詩集』(彌生書房)が今も書棚にあるけれども、ナルシスト的イメージを強く持つようになった高村に対する僕の関心は最早あまり高くなく『智恵子抄』にしても、十四年前に観た同名映画['67]に感じた美化された純愛物語の印象が強かったのだが、その映画のような作劇とは全く違っていて、高村光太郎の詩そのものをダンスをしながら読み上げていく作品だった。

 踊りながらの詠唱ではない朗読というのは、動きがあるぶん却って難しいのではないかと思うが、言葉が命とも言える詩の言葉をいささかも乱すことなく、明瞭に聴かせる技量と身体づくりは大したものだと感じた。立本夏山はまた声質がいいので、より引き立つように感じた。

 ポスト・パフォーマンス・トークでの話によれば、レモンを添えてステージ中央部に置かれた像は、立本自身のオーダーによるもので、イメージプランも彼自身が出したもののようだが、どことなくロダンの『ベーゼ』を抽象化した風情を漂わせていて、とても似合っているように感じた。

 緑の光、桃色の光でときどきに映し出されていた人型の動きは何だったのだろう。緑が光太郎で桃色が智恵子だったのだろうか。あまりピンとこなかったけれども、僕が生まれる二年前に逝去している明治生まれの詩人の作品を現代に蘇らせるうえで、ダンスという手法だけでなくテクノロジーの部分を盛り込むことの意味というのは、何となく分からないでもない。なかなか意欲的で、興味深い公演だったように思う。しかし、チラシのほうの野趣だけは、どうにも不可解だった。




 何事によらず自然体が好きで、高校の卒業アルバムのクラス標語に上杉鷹山の名言として知られる「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」をもじって「成れば成る 成らねば成らぬ 何事も 成るも成らぬも 事の成行き 〜自然流〜」などという不埒なもじり歌を掲載していた僕は、クスリもサプリもダイエットも嫌いだから、ギラギラ薬局の処方する“107歳までギラギラしながら生きる”クスリなどにはまるで心惹かれないのだが、主要メンバーが四十路に入っているとは思えないシャカ力の舞台のキレのいい身のこなしにはかねてより大いに魅せられている。今回もそのあたりは健在でなかなかのものだと思った。なかでもAI阿野田由紀のピッチングには感心した。

 そんなシャカ力でも、年齢ネタを正面に据える歳にはなっているのだなと、むしろ青年の心に目を向けているように感じられた前回ラリー公演の『シャカロック』に比して、歳相応の問題意識を作品化しているような気がしたが、作者が行正忠義から井上琢己に変わっても、ストーリーで物語ろうとせずにイメージ力で語ろうとするシャカ力の創作姿勢に変わりはない。

 驚いたのは、劇中で語られていた「2007年以降に生まれた日本人の50%以上が、107歳まで生きる可能性がある」というものが、実際に公表されている説だとの井上のPPTでの話だった。チラシにあった釈迦像からも、てっきり百八つの煩悩との関係のなかで創作されたものだろうと思っていた。奇しくも客席からの質問にそれと同じ意図からのものがあって、井上が回答したものだが、その答えにはすっかり意表を突かれた。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

 (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

 (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年07月28日

2018年9月8(土)〜12(水)移動テント劇団どくんご『誓いはスカーレット』東京公演開催!

2018年9月8(土)〜12(水)移動テント劇団どくんご『誓いはスカーレット』東京公演開催!

鹿児島の奥地に拠点を置きながら、移動テント小屋で全国縦断ツアーを行っている「劇団どくんご」。ツアー30周年目を迎える2018年は、九州から北海道まで全国32箇所、78ステージを予定。毎回満員! 今年は、念願叶って東京にもやってきます。

劇団どくんご公演 第32番
誓いはスカーレット

出演|五月うか、2B、石田みや、泰山咲美、クヌギタナオヒト 
構成・演出|どいの  *前夜祭、日替わりゲスト有!

日時|9月8(土)、9(日)、11(火)、12(水)19:30開演(開場30分前)
場所|葛西臨海公園展望広場 特設W犬小屋Wテント劇場(葛西臨海公演駅徒歩10分)
料金|前売・予約3,000円/当日3,500円/中高生1,500円/小学生500円
予約・問合せ|
どくんご東京実行委員会(嚮心塾内) 
Tel:03-3334-0481  Mail:kyoushinjuku@apost.plala.or.jp

*公演情報の詳細は、下記をご覧ください。
http://www.dokungo.com

【劇団どくんごの演劇の特徴】  by 五月うか(劇団どくんご)

劇団どくんごは、野外・テント演劇の持つ可能性と魅力を探求し、より多くの方にその楽しさを知っていただきたいと、テント公演全国ツアーを始めて30年になります。冬にツアーの準備と稽古をして、春から11月の終わりまで全国を回ります。
どくんごの演劇は、従来の演劇の枠を超え、ストーリーに頼らない、見て・きいて・外気を感じて、五感で楽しむ「体感型エンターテイメント」として、全国で演劇に馴染みのなかった幅広い年齢層の皆様に好評を得ております。
公演地によって、小学生のお子さん連れのお客さんの多いところや、中学校の先生方が受け入れで客席の半分が中学生といった公演地もあり、ストーリー内容に縛られずに、俳優の掛け合いのリズムや、歌やダンスといった生の舞台ならではの身体感・躍動感を楽しんでいただけるよう工夫しています。
楽しみや娯楽のたくさんある世の中ではありますが、各世代や趣味の合う人に小さく分かれて楽しむことの多い時代だと感じております。100人入れば満員の、小さい仮設劇場に、趣味も世代も違ういろいろなお客さんが膝を並べて、それぞれに楽しむ。たまたま通りかかった人も舞台の向こうから観ている、といった、野外の村祭りのような雰囲気が貴重だと感想をいただいております。ぜひお知り合いお誘いあわせて、楽しんでいただきたいと思います。

【公演について】

どくんごの公演には、具体的なストーリーはありません。目の前にいる俳優の声、身体によって、即興を含めたライブ感を最大限に生かす作風。生の楽器演奏やテントの外に広がる風景や音とも相まって、幅広い年齢層の方が、それぞれの視点で楽しんでいます。 めまぐるしく変わる「背景幕」、終わったあとの「交流会」も風物詩です。

【劇団どくんご】 

1983年、埼玉大学・衛生短期大学演劇研究会を母体として発足。小劇場・ギャラリー・喫茶店・学校・街頭・野外等で公演を行う他、1988年からテント劇場による全国ツアーを開始。2009年、拠点を鹿児島に移し、長期全国ツアーを開始。 
2009年『ただちに犬 Deluxe』全国38箇所、66ステージ/2010年『ただちに犬 Bitter』全国36箇所、71ステージ/2011年『A Vital Sign−ただちに犬』全国40箇所、82ステージ/2012年『太陽がいっぱい』全国42箇所、80ステージ/2013年『君の名は』全国38箇所、70ステージ/2014年『OUF!』全国38箇所、73ステージ/2016年『愛より速く』全国37箇所、87ステージ/2017年『愛より速く2号』『愛より速くFINAL』全国37箇所、68ステージ
http://www.dokungo.com
posted by アーツワークス at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年07月13日

【7/28-9/2】としまアート夏まつり2018 開催!



◆としまアート夏まつり2018◆


日程:2018年7月28日(土)〜9月2日(日)

会場:あうるすぽっと、区民ひろば、ぞうしがや こどもステーション、東武百貨店 池袋店

公式WEBサイト→ https://toshima-saf.jp/


アートと出会えるおまつりとして、毎夏豊島区で開催されている『としまアート夏まつり』。12回目となる今年、区内複数の会場で、様々なジャンルのアーティストによる作品や参加型プロジェクトがおこなわれます。


あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)ではメインプログラムである「子どもに見せたい舞台」シリーズを開催。0歳児から入場可能な演劇公演です。8ヶ所の区民ひろばでは、プロの俳優による「よみしばい」を実施。演劇に触れるきっかけをご用意します。また、アニメーション上映会や親子向けのライブなど、様々な企画も展開されます。子どももおとなも一緒にアートを楽しめる豊島区発の『としまアート夏まつり』に、今年もぜひご期待ください。



【プログラム一覧】

■子どもに見せたい舞台vol.12 おどる童話『THE GIANT PEACH』

振付・構成・演出:スズキ拓朗

日程 8月6日(月)〜12日(日) 全10ステージ 

会場 あうるすぽっと

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program01/


■よみしばい『星の王子さま』

アーティスト:Theatre Ort

日程 7月28日(土)〜9月2日(日)

会場 豊島区内 区民ひろば各所

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program02/


■アーティストとあそぼう!「親子で遊ぶ からだワークショップ」

アーティスト:松岡大

日程 7月28日(土)@11:00〜12:00 / A13:30〜14:30 入れ替え制

会場 ぞうしがや こどもステーション

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program03/


■「スティールパンのデュオライブ!」 親子で楽しむ ぷちライブ!【満員御礼】

アーティスト:トンチ&佐々木謙太朗

日程 8月18日(土)@11:00〜12:00 / A14:00〜15:00入れ替え制

会場 ぞうしがや こどもステーション

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program04/

 

■夜空の屋上上映会―短編アニメーションと夕涼み―【満員御礼】

ナビゲーター:水江未来

日程 9月1日(土)18:30〜19:30 ※荒天の場合は翌2日(日)に順延

会場 東武百貨店 池袋店 8F屋上 「スカイデッキ広場」

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program05/


【主催】としま文化創造プロジェクト実行委員会

(豊島区、豊島区教育委員会、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、NPO法人芸術家と子どもたち、公益財団法人としま未来文化財団)


【助成】 一般財団法人地域創造

平成30年度 文化庁 国際文化芸術発信拠点形成事業(豊島区国際アート・カルチャー都市推進事業)


【としまアート夏まつりに関するお問合せ】

NPO法人アートネットワーク・ジャパン

TEL:03-5961-5200/MAIL:info@toshima-saf.jp


posted by アーツワークス at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年05月18日

'18. 5.12. 高知パフォーミング・アーツ・フェスティバル2018 向井山朋子「HOME」









会場:赤岡町赤れんが商家

コンセプト・演出・映像・写真・振付:向井山朋子

パフォーマンス:湯浅永麻

映像・技術監修:遠藤 豊


 珍しくも妻から誘われたライブ公演なのだが、緊張感のあるパフォーマンスレベルの高さに観応えがあって、さまざまな触発を受け、すっかり魅了された。古民家の一室に設えられた異空間と言ってもいいような閉塞感を際立たせるように今は見掛けることもなくなった昭和風のブラウン管テレビの画面に開演前から映し出されていた“スレンダーマシーンのTV通販”というのは、健康食品のCMとともに常日頃、僕が“最も不思議な現実離れ感覚”を呼び起こされるイメージなのだが、作り手にもそういう思いがあるのではないかという気がした。スレンダーマシンを装着するだけで引き締められるイージーな身体とは対極にあるような鍛えに鍛えた身体による見事なパフォーマンスを観ながら、いったいどういう鍛え方をして、どういう筋肉の使い方をすれば、かような身体表現ができるようになるのだろうかと湯浅永麻の一挙手一投足に観入っていた。


 冒頭、後ろ向きに正座したままの着物姿で振り掻き乱す黒髪の様々な動きに“伊藤晴雨のあぶな絵”を想起させられたのだが、その後に続く下着姿での打擲や震え、怯えを観ながら、何かに強く囚われ、ひどく傷み窮屈になっているものが何かを想ううちに、思春期の素の女性の心象の象徴のようなものを感じたのは、ひどく強調された時計の響きに寺山修司の遺作『さらば箱舟』を想起させるような場面が現れたり、ぶちまけられる幼い時分から今に至る大量のスナップ写真や、堀内佳子の映画『赤ぱっち』や黒澤明の『夢』を想起させるような狐の面を付けて顔を隠し衣服をまとうことで、ようやく震えが止まり滑らかな動きを手に入れることができるようになる姿を観たからかもしれない。『さらば箱舟』を想起したことには、古民家の一室という場の佇まいが大きく作用していたように思う。


 しかし、面を取り衣服を脱いで素に戻ると忽ち閉じ籠る鬱屈を抱えていたような気がする。沢田研二の歌う♪勝手にしやがれ♪を映し出すTV画像とともに繰り広げられたストリップステージさながらの赤い照明と踊りを観ながら、それもまた思春期の女性の大いなる鬱屈であるように感じた。この調子でずっとツラく苦しい心象イメージを続けられると難儀だなと思い掛けたころ、程よくトレンチコートの男との恋愛に恵まれたようで、身動きできない心の縛りからのまさに“脱皮”を果たし、閉塞していた自身に風穴を開け、素のまま外へと飛び出していけるようになっていく姿を見届けるに至り、ますますもってこれは寺山修司じゃないかと思ったりした。


 帰途、「なかなか観応えがあったね」と話し合っていたら、妻から「♪勝手にしやがれ♪が可笑しかったね」と言われ、ストリップダンスみたいなパフォーマンスのことを言っているのかと怪訝に思ったら、パフォーマーの湯浅永麻が田中裕子に似ているからの沢田研二だと思ったようだ。言われてみれば、確かに似ていたが、なぜ沢田研二なのかということに僕は、全く気付いていなかったので、感心しきりだった。




 その日の午後、映画『勝手にふるえてろ』(監督 大九明子)を観たら、奇しくもこれは午前中に観た『HOME』そのものではないかという気がした。異常でも偉人でもない24歳、男女交際未経験のOL江藤ヨシカを演じた松岡茉優が実に巧くて、自分に自信がないくせに自意識だけは過剰なまでに働き、表には出せない“上から目線”と“未熟な訳知り顔”を自身の内で繰り返してばかりいるという、どうにも手に負えない“若い女性の面倒くささ”を見事に体現している作品だった。『HOME』のようにツラさ苦しさが前面に出るのではなく、いささかカリカチュアライズされた若い女性の手に負えないめんどくささの活写に観ていて微苦笑の絶えない作品なのだが、何かひどい囚われによる窮屈な不自由を抱えている点でぴたりと重なっていた気がする。


 さすれば、『HOME』での♪勝手にしやがれ♪は『勝手にふるえてろ』からきたものでもあったのかもしれない。昨冬、東京では大ヒットしていたそうだから、それも大いにありそうに思った。





コープスパフォーマンス『ひつじ』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2011/43.htm

『さらば箱舟』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1984j/03.htm

『赤ぱっち』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2005j/14.htm

『夢』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1990j/01.htm








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

      (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年05月16日

テアトル・エコー公演 『もやしの唄』(高知市民劇場第332回例会)









'18. 5.11. 会場:県民文化ホール・オレンジ


 小川未玲の書いた本作を初めて観たのは、十一年前の地元劇団での公演だ。その演劇センター'90は、いまはもう解散しているが、元の劇団員は演劇活動を続けていて、その一人である現在カラクリシアターを主宰している谷山圭一郎を初めて観たのもそのときの公演だった。彼の演じた恵五郎の印象が妙に強かったせいか、今回の恵五郎は少々物足りなく、近所の中華屋で働く気のいい九里子(小泉聡美)が惹かれるのは恵五郎ではなくて、村松幸雄(川本克彦)のほうだろうという気がして仕方がなかった。泉商店の先代時代からの従業員だった明治生まれとの近藤喜助を演じていた後藤敦が、明治大正昭和を生きてきた人らしい佇まいを思いのほか所作に窺わせていて目を惹いた。


 それにしても、機関紙に転載された小川未玲の記事によれば、2012年が八年ぶりの再演だったようだから、演劇センター'90の公演は、初演からわずか三年という早さであることに驚いた。十一年前に、僕よりも十一歳年下の小川未玲が書いた「変わらなくても よかったのに…」との台詞に、少々小癪なものを感じた思いが今回はいささかも湧いて来なかったのは、僕自身の寄る年波のせいなのかもしれない。


 人々が共に暮らす繋がりの醸し出す温かみというものを、十一年前よりも素直に感受することができたように思う。いまではもう夜中に『もやしの唄』を聴いたことのある人なんて本当に一人もいなくなっているのではないだろうか。


 折しもふとしたことから『この世界の片隅に』の原作漫画を読んだことから、映画化作品の公開時に綴った日誌を開くと、「戦況が悪化するなか、すず(声:のん)の呟く「いがんどる…」が心に深く刺さってきた。本作に描かれた戦前・戦中・戦後まもなくの日本を僕は同時代では知らない。わずかに薪で風呂を焚いたことや直火で飯を炊いた経験はあるけれども、日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活からは既に遠くなっている」と記している一節があった。『もやしの唄』にはまさしくこの「日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活」が描かれていたように思う。


 観劇後のバックステージツアーに誘われ、井戸からの手押し汲上ポンプから実際に水が汲み出されていた舞台装置を見分した。遠い昔、僕の家にもあったものだが、取水口に袋掛けしていた布に赤錆が付着して色付いているさまが施されていて、その芸の細かさに感心するとともに、懐かしい想いが湧いた。




http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/4-28.html











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年04月18日

おさらい会vol.02『宮城野-MIYAGINO-』









'18. 4.15. おさらい会vol.02『宮城野-MIYAGINO-』

会場:劇団33番地 蔵の稽古場


 シアターTACOGURA公演#007『イプセン 民衆の敵』でカトリンを演じて魅力的だった伊藤麻由の演じる宮城野に、艶と気丈が確かに備わっていて、なかなか刺激的な作品になっていた気がする。女郎の宮城野と彼女が惚れている絵師見習いの矢太郎(山田憲人)が交わす会話のくるくる変転する言い分に、何が本当のことなのか、そして、宮城野が「あたい、あれが好きな女なんだと思うんです。…あれっていっても、いやらしい意味じゃない…男の人に抱かれることじゃないのよ。」と最初に言っていた「あれ」とは何か、ついつい考えさせられた。


 全体的には、どうやらのっぴきならぬ事情により別れを果たさねばならなくなった二人が互いを慮った口上を交わしていたような気がする。されば、唯一、偽りなき真情が語られたのは、矢太郎の去った後の宮城野の独白場面だけということだ。ならば、矢太郎との駆落ちと写楽殺害を孫娘のおかよが告げに来たのは事実だということになるが、おかよは、矢太郎が言うような「うぶなお方」でも、宮城野が矢太郎に告げたようないじらしいことを言う女でも、なかったことになる。それでも宮城野が、おかよの実像を伝えるどころか、矢太郎を想って写楽殺しまで引き受けようとしたのは、何ゆえだったのか。


 最後の宮城野の独白場面での「いいんだ、いいんだ、それもこれも、みんな、あたいの、あれが好きな性分から来てるんだもの。だれを責めるわけにもいかない」を思い返しながら、当日配布の演出ノートで触れられていたキリスト者的なものとしての受苦や自己犠牲よりは“貧乏くじ”という言葉が浮かんだ。宮城野は、別れも告げずに姿を消しても不都合なかったはずの矢太郎がきちんとけじめを付けに来てくれたばかりか“いい値で売れるはずの役者絵”をくれたことが無性に嬉しかったのだろう。そして、どうにも江戸を去らねばならない事情によって姿を消すのであって、宮城野に愛想をつかしたのではないと知らせてくれたことへの返礼に宮城野が矢太郎の心理的負担を軽減しようと騙り話をしたことに対して、自分への執心が深いことをつくづく感じ取った矢太郎が、絵を返してもらうと悪態をつき、自分を訴え出るかもしれないとまで言って、愛想尽かしをさせようと応えてくれたことに痺れたのだろう。あのとき宮城野が「あたいが、どうして、その絵をこんなにほしがってるか、いつかわかるよ。」と言ったのは、そういう意味に違いない気がする。宮城野が床に入ることを誘っても応じなかった矢太郎が別れに際して頼んだ裸身を見せてくれとの願いに応えていた場面を観ながら、『人間の條件』(監督
小林正樹)の梶夫妻を想起した。宮城野は、本当は矢太郎が殺しのできる男などではないことを確信していたのではなかろうか。


 いつも貧乏くじを引くことを自分の性分として積極的に引き受け拠り所にするしか、苦界に沈んだ自身を支え気丈に生き延びる術がなかったと思しき宮城野の哀しみと、そのなかで施された“夜なきうどん”に始まる矢太郎から受けた温かみへの想いの強さが偲ばれて心に残った。宮城野を演じた伊藤麻由が、しどけなく脚を覗かせつつ、艶と気丈を確かに伝えていた声の調子と眼差しの揺らぎに誘われたのかもしれない。もっときちんとした照明や道具を設えた舞台のなかで味わってみたいと思った。そして、本作をそんなふうに解した自分からすると、山田憲人の演じた矢太郎は、少々人物造形が違うような物足りなさが残った。


 本作を演出するうえでの重要ポイントは、矢太郎をどのタイミングで退出させるか、なのだろう。今回の公演では、テキストを提供してくれていたから、それに従うと、彼の最後の台詞「こっちも、もう、一ぺん、言うぜ、あ、ば、よ。」の後のト書きに(虚勢とすぐわかる、すごんだポーズをするが、やがて…)とあって(肩を落とした後ろ姿が哀れである)となっていて、作者が矢太郎退出のタイミングを指定していないところが目を惹いた。


 つまり「唯一、偽りなき真情が語られたのは、矢太郎の去った後の宮城野の独白」となるとすれば、矢太郎の「あ、ば、よ。」の後に続く宮城野の台詞「なんだい、なんだい。じゃ、ひょっとしたら、三人で最初からしめし合わせて、ぐるで……殺しを……」の時点で矢太郎がいるのかいないのかが、とても重要になってくるわけだ。水呑百姓の味方の侍だったという高野信三郎が決して紳士などではなくて、宮城野を「手ごめにして、思いきりなぐさみものにして、それっきり、ドロンの、人間の屑」だったとの話はともかく、「おかよだってそうだ」の部分を矢太郎に聞かせた言葉とするのか、矢太郎がいなくなった後での独白の言葉とするのかでは、意味合いが全く違ってくる。


 演出プランとしては、この日の公演のように矢太郎の「あばよ」で退出させるのもあれば、彼の(肩を落とした後ろ姿)に向けて投げつける言葉としつつ、おかよにまつわる部分は聞かせて「いいんだ、いいんだ、それもこれも、みんな、あたいの、あれが好きな性分から来てるんだもの。」からを独白にするのもあろう(これが最も多そうな気がする)し、終わりのほうの「焼けこげになりそうな人がいたら、あたいが、身代わりになってやるんだ……それが、人のつとめというものだ!……」をも矢太郎の後ろ姿に向けて喋らせるのもあるだろうと思う。その後のト書きの(寺の鐘が鳴る)までには退出させないといけないとは思うが、台本で言えば、やたらと多い「……」の間のどこでどういうふうにして退出させてもいいように書いてある気がした。


 それで言えば、おかよが決していじらしい女ではないことを語る宮城野の言葉を矢太郎に聞かせる台詞とはしなかった本公演の演出(西村和洋)を、僕は大いに支持している。あれが矢太郎に向けての言葉となっては、矢太郎の施した“愛想づかせるための悪態”に対して宮城野も同じことを返したことになってしまい、“あれ好き”の哀しみが際立ってこないことになるからだ。


 だから僕は、師匠殺しの件について、宮城野の独白としての「なんだい、なんだい。じゃ、ひょっとしたら、三人で最初からしめし合わせて、ぐるで……殺しを(騙りやがって)……なんだい、なんだい、人をバカにして……」と受け止めている。これが矢太郎に向けた言葉ではないのなら、少なくとも宮城野にとっての真実はそこにあったはずだ。


 矢太郎の殺しを“騙り”と観るほうが、やはり“夜なきうどん”の彼に相応しいと思わずにいられない。加えて、冒頭で宮城野から床に入ることを誘っても応じなかった矢太郎の願いに応えて「いいわ、なってあげるよ、裸に。けど、もう、崩れちゃってるんじゃないのかねえ、あたいの体なんか。」と言いながら、宮城野が客席に背を向けて帯を解いていた場面を観ながら、『人間の條件』での美千子(新珠三千代)の感慨深い場面を想起した僕の心象にも見合う気がしている。矢代静一が本作を書いたのが1966年なら、当時空前の大ヒットをした映画版も含めて彼はきっと観ていて、あの場面に影響を及ぼしているに違いないと思った。


 だが、演出者は矢太郎の殺しを“騙り”とは解していなかったようで、それどころか「矢太郎は写楽の偽絵を宮城野に渡すことで金を無心しにきた」との捉え方さえしていたそうだ。僕のなかに少々人物造形が違うような物足りなさが残ったのも当然だという他ない。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年04月03日

『報われません、勝つまでは 土佐弁ver.』現役高校生版・かつて高校生だった者たち版









'18. 3.25.  会場:高知市文化プラザかるぽーと小ホール


 同じ田上豊の作・演出による芝居のダブルキャストを「現役高校生版」「かつて高校生だった者たち版」とすることで少し造りを変えてきている2ヴァージョンの芝居を観て、かなり触発されるものがあって、大いに楽しめた。かつて高校生だった者たち版第2公演を先に観てから、現役高校生版第3公演を観たのだが、僕の好みは断然、現役高校生版のほうだった。高校ハンドボール部の部室一場の芝居だけに、高校生が高校生を活き活きと演じることで生まれているエネルギーのほうが、演技者の技術力の差異を上回っていたように思う。


 加えて、中心となる高校生部員以外の配役について敢えて対照的に配したと思しき、工事現場の男 福永弘と謎の女 本山裕美において、現役版の人物造形の魅力が断然上回っていたことが大きく作用していた気がする。現役版の木下瑞貴と浜田あゆみがなかなかよくて目を惹いた。かつて版の福永を帰化人にして台詞がろくに聞き取れない人物にしていたことで得られたものが、僕にはなにもなかった。


 先に観たかつて版では“土佐弁ver.”と銘打った“言葉”への囚われが、僕のほうに生じていたのかもしれないが、微妙な違和感が妙に気になった。なまじ地の言葉であるだけに日常語としてよりも舞台台詞として聞こえてくる響きが些細なところでも気に障ってくるのだろう。舞台経験が豊富で芝居語としての発声に経験の豊かなほうに、つい舞台口調が現れてくることに比べ、舞台経験の少ない若しくはないほうにはその虞の余地がないことが、図らずも幸いとなっている気がした。また、高南台高校スポーツ特進クラスの一雄が落ち零れた旧知の高知学院生の克人に与える屈辱にしても、かつて版の克人の顔を靴で踏みつける行為と現役版の克人の顔に水を浴びせかける行為とでは、同じく弟
浩二の怒りを買うにしても、かつて版のほうが遥かに味が悪い気がした。


 そんなこともあってか、かつて版の高校生たちの見せる強気と弱気の錯綜や暴力性に対して、僕のなかでは笑いが湧いてくることがほとんどなくて、部室のロッカーに施してある落書きの“働かざること山の如し”がいちばん可笑しいという少々勿体ない観劇になっていたのだが、現役版は思いのほか面白くて、随所で笑え、高校生の発揮する反射的な暴力性に対しても、かつて版に感じた厭味をほとんど覚えることなく、十七年前の『この窓は君のもの』['95](監督 古厩智之)の映画日誌に記した三十二年前の拙詩のことを思い出した。その詩の題は“失くしたもの、犯していること”なのだが、まだ失くしてはいない現役高校生と既に失くしているはずのかつて高校生だった者たちとでは、同じ場面を演じても生み出すことのできる空気に違いがあるのは、当然なのだと思った。でも中学生は過ぎ、高校生だから、ゲン先生が諭したように、喧嘩は奨励されると同時に制止されなくてはならなくなってもいるわけだ。

 





『この窓は君のもの』['95]の映画日誌http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2001j/11.htm














  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


          (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

          (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系