2018年10月02日

東京キャラバン in 高知“KOCHI KARVAN 夢幻行脚?”









'18. 9.16.  会場:県立美術館・中庭


 知り合いからの誘いも受けたし、観覧無料だし、と出向いたのだが、まるでピンとこなかった。KUTVで放映されていたローカル長寿番組『歌って走ってキャラバンバン』をもじった運びで“高知のスゴい文化”たる参加アーティストとして、山田太鼓伝承会やカポエイラ バトゥーキ ジャパオ高知、高知県庁正調よさこいクラブなどを紹介していく舞台構成で始まった公演を観ながら、なんだかなぁと思ったのだが、その後も観続けているうちに、高知の文化素材を使って“創造しているのではなく消費している感じ”のようなものが湧いてきた。


 そもそもこれは何なのだろうと思って、帰宅後、当日配布されたリーフレット「TOKYO CARAVAN 2018」を読んでみると、そこに記された野田秀樹の言葉に、東京オリンピックに便乗した太鼓持ち企画だったのかと妙な納得感を覚えた。だいたい“東京キャラバン”などというネーミングからして気に食わないという気がしてきた。


 それにしても、チラシに記された“高知のスゴい文化”としての抽出は、どんな基準のもとに、誰がどういう形で行ったのだろう。リーディングアーティストとしてクレジットされている木ノ下裕一の示した基準に沿って高知県文化財団が提供した情報をもとに、木ノ下が選定したというのが順当な線だと思うのだが、もしそうだったとしたら、公演以上に、木ノ下の示した基準とそれにより県文化財団が提供した情報のほうが、より興味深いように思われた。











  ヤマ

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   (『間借り人の映画日誌』)

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   (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2018年09月10日

'18. 9. 7.  ハイバイ公演『て』









'18. 9. 7.  ハイバイ公演『て』

会場:県民文化ホール・オレンジ


 何とも掴みどころの無いタイトルの芝居だが、中身そのものも何だか据わりの悪い後を引く感じが残ったのは、まさしくそれを作り手が企図しているからではないかと思った。大黒柱のない家の柱が地に着かず宙吊りになっている不安定な柱構造の舞台装置が利いていて、時に家が傾きつつも柱は素知らぬ顔で垂直のままだったりしているところが意味深長で、微妙に異なるリフレイン構成にして同じ場面を二度描いている意匠が目を惹いた。

 しかし、無闇に挑発し合い攻撃的になる家族関係の生々しい毒舌や威嚇の言葉を聞きながら、少々辟易としてきたのは、ひと回り目の二男次郎(田村健太郎)の長男太郎(平原テツ)に対する物言いや、長女よしこ(安藤聖)の次女かなこ(湯川ひな)に対する強迫に、独善的で思い上がった自己拡張と威圧を感じ、その根幹にあるものが血縁関係へのネガティヴな甘えに他ならないように感じたからだろう。作・演出の岩井秀人は、家族に対して只ならぬ確執や屈託を抱えているのではないかという気がしてならなかったが、アフタートークで、図らずも率直にそのことを披瀝していて驚いた。

 暴力的な父親のもとに育ち、うまくいかない家族が、認知症の祖母が92歳で亡くなった際の葬儀のときに久しぶりに一堂に会していがみ合ったという話は、岩井秀人の家の実話そのものなのだそうだ。実際の牧師は、舞台に登場した牧師(松尾英太郎)以上にひどい有り様だったけれども、あまりのことに現実味がなくなりそうで緩和したというようなことも語っていたが、本当にそうだったのだろうか。開幕早々から矢鱈と牧師に毒づいていた次郎のファナティックなまでの自己拡張キャラを印象づけるためだったような気がしてならない。そして、怪しい牧師同様にヘンな人としてコンビニ店員の話をしつつ、それに逆上してコンビニで暴れたという自身のことをホンにしてNHKで作品にしたとも語っていたが、それが事実なら店員のキャラ以上にオカシナ人物だとしか思えない気がして、騙りのような気がしてならなかった。それとも、そういうヘンな人は類が友を呼ぶようにして本当にヘンな人ばかり呼び寄せるのか、それとも、本作が示していたように、ヘンに映るのは岩井のほうがヘンだからこそで、別の目には必ずしもそうは映らないということなのか。

 アフタートークの話ではどうやら父親は外科医らしい岩井が、暴力的な父親のもとに育った自分の家の話だと解題していた本作において、家では「て」を出し金を入れない父親としていたことについても、そういった部分が家族からの台詞でしか語られない父親(猪俣俊明)の客席の目に映る人物像は、本作に登場した男三人女三人の六人家族のなかで、ある意味最もマトモで激することのない人物だったような気がする。アフタートークで何に対しても明快饒舌に語っていた岩井が唯一、言葉を濁したうえで元々は祖母菊枝(能島瑞穂)が手にしていた義手のことだと言っていたけれども、実は前述した意味合いでの「て」であり、もっと言えば、目に映るものが全てではないと同時に、映る目にとってはそれが全てであることを現出させる手段としての「て」だったりするのかもしれないなどと思った。そして、アフタートークで開陳しているようで幻惑しているように映るトークも、岩井の「て」なのかもしれない。








  ヤマ

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2018年08月28日

'18. 8.26. おさらい会リーディング公演vol.03『生きてゐる小平治』









'18. 8.26. おさらい会リーディング公演vol.03『生きてゐる小平治』

会場:西村謄写堂本社社屋


 名のみぞ知れど舞台でも映画でも本作を観たことのない僕には、これを怪談というなら、第一幕の郡山で殺されたように思われながらも十日後の第二幕において満身創痍で江戸に現れるばかりか、第三幕の旅装での二人になお付きまとう小幡小平治(山粼千啓)なんぞよりも遥かに、おちか(伊藤麻由)の怖さこそが怪談だと思った。歌舞伎役者の小平治と“長年の馴染”である囃方の那古太九郎(山田憲人)の二人ともから、“心の弱い気の優しい女”“やさしい気の小さい女”だと言われつつも、第二幕の最後では太久郎を焚きつけ「咽喉を、咽喉をもう一ツ。」とまで言っていた魔性に恐れ入った。


 タイトルこそ小平治がメインなのだが、このおちかをどういう女性として造形するかが本作の演出上の要になって来るように感じた。第一幕で太久郎が小平治を挑発したように、分相応の役者狂いに過ぎない女房の淫事(いたずら)だったのか。或は、小平治が言うように心底惚れ合っていて、第二幕では「生きられるだけ生き、時が来たら一緒に死にましょう。」とまで言っていたことも紛れなく真情として持っていたのか。そのいずれなのか、はたまた両方なのか。


 おちかの声の聞こえない第一幕と小平治の声が聞こえない第三幕を観ながら、僕の好みとしては、やはりその両方ともが真実であればこその女の怖さが浮かび上がる芝居であってほしく思ったのだが、その意味では、おちかの気の強さや性悪が強めに色づけられているように感じられた点が、やや気に沿わなかった。


 江戸に戻ってきた小平治から「女敵の太九郎を殺した」と告げられたのが嘘だったことに対して「小平次さん。お前は拵え事をしたのだね。太九郎を殺したなんて…まあなんというひどい嘘をいったんだろう。」という台詞にやや怒気が滲んでいるように感じられたのだが、ここは怒気よりも驚きと哀しみであってほしかった。そのうえで、思わぬ顛末に狼狽したまま答えを出しかねているうちに太久郎が刃傷沙汰に及んだことで、自身が答えを出す前に状況が追いやった事態に自分を乗じさせる勢い付けとして「そうだ。うまく行った。嘘つきめ! 咽喉(のど)を、咽喉をもう一ツ。」と囃し立てたと解したいところが僕にはある。小平治の側に行きかけながらも当てがなくなりそうになると太久郎の元に戻るしか身の置き所を見い出せない女の哀れの浮かぶ風情が欲しかったように思うのだ。


 そのためには小平治から「早く殺せ!」と迫られながらも「許してくれ。………。おれには殺せない。ああ、おれは恐ろしい」と震え、「おちかは貴様にやる。きれいにやる。連れていけ」とまで言っていた太久郎が矢庭に小平治に切りつけたことに対する驚愕と、その発端が自身の洩らした「太九郎どの、お前、わたしと別れるのかい」との言葉によるものであることへの怯懦が漂っていないといけない気がする。同時にそれは、太久郎が第一幕で「おちかに惚れているのはおれも同じだ」と言っていた言葉が単に小平治への対抗心からのものではない真情であったことの証としても現れなければいけないように思うのだが、そういうニュアンスが少々乏しかったように感じる。


 そして、太久郎がいないとなれば小平治と生きようと思い、小平治が殺されるのなら太久郎に加担することに躊躇の無いおちかには、独りではいられない頼り無さこそが全てなれば、第三幕での「連れて行っておくんなさいよ。お願いだから捨てないで…。」が、それこそ“色の諸分、濡れの手管”ではない女の真情として宿っていないといけないように思う。そうでないと、まさに「ほかに惚れた男のある女で、腹のくさった女房で、亭主の面に泥をぬる売女」になりかねないことになって興醒めてしまう気がする。


 やはり小平治と太久郎がともに“心の弱い気の優しい女”“やさしい気の小さい女”と言ったままの女性であることのほうが、女の怖さと倫ならぬ色恋のタチの悪さが浮かび上がってくるのではなかろうか。だから「なんでもわたしのせいにするのだねえ」とのおちかの嘆息には、恨みがましさの微塵もない哀しみが宿っていなければいけないように思う。


 演じた役者は三人とも声がよく、また声に力もあって語りがよく響いてきた。昔言葉の響きにある色気をなかなかよく感じさせてくれていたように思う。効果音などの音響効果が備わると、恐らくラジオドラマを聴いているような感じが漂ってくるのではないかという気がするが、リーディングだとやはり言葉が前面に出てくるように感じる。これはこれで悪くないものだと改めて思った。












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2018年08月10日

'18. 8. 5. タネマキカク第1回公演『「…」』









'18. 8. 5. タネマキカク第1回公演『「…」』

会場:蛸蔵


 もう何年も打っていない気がするが、ひと頃は毎日のように囲碁に興じていたから、久しぶりに碁盤に高らかな石音を立ててみたくなった。高知公演に寄せて脚本家【久野那美(Fの階)】が「囲碁劇を作ろうと思いました」と記しているように、利き石が重荷になったり、死に石が甦ったり、手順を重ねることで局面が変わり、同じ場所に置かれたままの石の持つ意味が変化していく“囲碁”というものを意識した造りにはなっていたが、囲碁を「点転」との名称に転じ、盤上競技と言いながら、盤の大きさに規定がないなどという無体な競技にしたうえで、いささか見苦しい作家的自意識に囚われた小説家を名乗る紙袋を持つ男(オカザキケント)を造形した脚本を第1回公演企画として取り上げることにしたのは、何ゆえだったのだろう。


 物語としての面白さという意味では、僕の感想はまさにタイトル通り「…」でしかないのだが、黒い靴の女(上村彩華)を配したものと白い靴下の男(吉良佳晃)を配したものとの二つのヴァージョンを構えていたことで対照される違いがなかなか興味深い公演になっていたところが面白かった。先に観た“黒い靴の女”版だと、紙袋を持つ男と何も持たない女(柴千優)という「点転」側の人物、言うなれば作家側の拘りのほうに重きが置かれ、後から観た“白い靴下の男”版だと、最後に窓辺から外を眺めていた二人の非「点転」側の人物の姿が示すように、言うなれば読者ないしは観客の側に重きを置いた作劇になっていた気がする。僕の好みは断然、“白い靴下の男”版だ。火葬場の控室にきちんと扉を開けて入ってきていた黒い靴の女と違って、独り靴も履いていない靴下姿で客席側から現れた白い靴下の男が、小説家の漏らす取るに足らない不満とか、考えを変えて露にしていた慢心とかを一喝すべく、彼とは旧知の間柄だったらしい故人となった女性があの世から遣わした者のように思えたからだ。


 十七年前に故人と別れ、地元を立ち去った小説家にそのとき何があったのかは明かされないが、おそらく二人は昵懇の間柄だったのだろう。男が小説世界のなかで創造したものに惹かれ認め、実際に現実世界のなかで女が展開し始めたことに離別の原因があったような気がする。その核心は、男の器の小ささだったのではなかろうか。そもそも十七年前の時点で、既に十冊を超えるだけの著作を刊行している小説家だとは思えないような文句と強欲を“何も持たない女”にぶちまけるようなセコイ男なのだ。もっとも、白い靴下の男や黒い靴の女の読んでいた『転がる点』ではなくて、窓の外を見ている女(山田紫織)の読んでいた『弔』に書かれていたものが本作「…」だったりするのであれば、話は少々異なってくるのだが、流石にそれはアンフェアというものだ。


 どうにも残念だったのは、紙袋を持つ男が、どう観たって十七年前に既に十数冊の作品を上梓している小説家には見えないことだった。演出プランとしての設定年齢は何歳だったのだろう。少なくとも中高年には至っていないといけないように思うが、どうもそういう意識で演じているようには映って来なかった。それなりに相応の老けメイクを施していないと、現実感に乏しい物語世界の不思議感の際立ちが削がれてしまって出鱈目感のようなものが立ち上がってきかねない気がした。こういう作品なればこそ、大事なことのように思う。











  ヤマ

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2018年07月29日

【演劇祭KOCHI 2018】









会場:藁工蛸蔵


'18. 6. 3. 劇団まんまる【徳島】 第4回公演『吃音ヒーロー』

'18. 6.10. カラクリシアター 『エデンの月』

'18. 6.17. TRY-ANGLE act.28 『ライフレッスン』

'18. 6.24. パッチワークス第5回本公演 4都市ツァー【愛媛】『「∩」積集合』

'18. 6.30. 立本夏山ひとり芝居【東京】 『智恵子抄』

'18. 7. 7. 劇団シャカ力 『ギラギラ薬局』

'18. 7. 8. アフターエンカイ




 今年の演劇祭KOCHIもまた県外からの参加劇団が3つあったものの、ラリー参加公演数は6と半減してしまった。連年参加も昨年から2団体減って3団体となり、シャカ力、TRY-ANGLE、劇団まんまる【徳島】となってしまった。事務局団体を担っているシアターホリックが演劇祭参加から外れた事情には劇団員不足もあったようだ。また、かつては公演参加劇団に義務づけられていたように思うPPT(ポスト・パフォーマンス・トーク)をプログラムに構えている劇団がシャカ力と徳島からのまんまるだけになってしまっているのは、とても残念だ。PPTやアフターエンカイを盛り立てていくことこそが、地道ながらも観劇ファンを育て広げることになるように思うのだが、何年か前にアフターエンカイが劇団交流のほうにシフトしたことでの得失の感じられるものになっていたような気がした。





 演劇祭開幕公演は、県外から三年連続で参加している徳島の劇団まんまるが初の長編劇に挑んだという『吃音ヒーロー』だ。

 笑いや幸福感を得ると体が衰弱し死に至るというアベコベ病を娘オルカ(東條優紀)が患ったことによって、領主ドルフ(鵜戸昌実)が芸術や笑いに禁制を掛けてしまったワイトリーユという町を、吃音の劇作家キツオ(小川真弘)と演出家ニナオ(大木茂実)率いる旅芸人が訪ねる設定になっていたが、そんな統制などなくても言いたいことをきちんと言えなくて口籠らずにいられなくなる世の中が近づきつつあるということを意識しているような気がした。そのことに対しては、オルカを慮って(近ごろ流行の言葉で言うなら“ソンタク”であろうが)笑いが封じ込められることを、当のオルカは決して求めておらず、むしろ死に近づこうとも笑いと幸福感のほうを求めていたことが明示されていた点が気に入った。

 だが、PPTで聴いた話からは、作者の丸山裕介【サーディン】は、そういう社会的な潮流のようなことよりは、もっと普遍的な弱者の声としてキツオの吃音をイメージしているようだった。そのほうが穏当なのかもしれない。そういうパーソナルな部分に向ける視座からすれば、確かに小川真弘が語っていたように、生きていてこその人の命なのだから、オルカに芝居を観られてしまったことを悔いるキツオの心情というのもあり得るなと思った。

 でも僕は若い時分から、やはり「人はパンのみにて生くる者に非ず」と考えるほうだし、還暦も過ぎるともっと身近な問題として寝たきりだけの生活で生き延びたくはないとの思いが強くなっている。人の死生観はさまざまあって然るべしだと思うけれども、僕は、幸福な生が得られぬのならば、惨めな生よりも幸福な死のほうが望ましく感じるので、オルカの最期を肯定的に捉えたいと思うし、本作の設定からすれば、まさに然るべき結末だったように思う。あえて吃音の劇作家を設けていることに対して、社会的な潮流に対する意識を読み取ったものだから、余計に僕にとっては、そこは“必然”とも言える部分になってしまう気がする。

 妙に可笑しかったのは、イールを演じた藤本康平のモミモミ,クリクリ,スリスリの手付きとそれを目にして如何にも嫌そうに憤っていたオルカを演じた東條優紀の表情だった。第3回公演『出航!まんまる丸! in 高知』の『ニシン』で見覚えのある股間から長く伸びた逸物ウマも劇団まんまる印みたいで可笑しかった。また、おしなべて皆、声と発声がいいように思う。叫びがちゃんと叫びになっていて耳に障らないことに感心した。レティシアを演じた清水宏香は麻生久美子に声が似ているように思った。  




 カラクリシアターによる『エデンの月』では、貴志(おっかん)の言っていた“ひと夏の恋”の思い出ひとつできないことと、美月(YU☆KI)が見舞われていた記憶の喪失はあっても身体に深く刻み込まれた生の痕跡を得ていること、劇タイトルが示すようにアダムのあばら骨から作られたイヴのごとき存在として星野大地(かりらり)が二十年ものあいだ囚われ続けている美月への執心の、いずれが人にとっての幸いなのだろうなどと思いながら、お気に入りの映画『コキーユ 貝殻』( http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2000j/04.htm
)['98]を思い出した。

 いささか腑に落ちなかったのは、太陽の光を見ることができないからの夜のプールでの事故があり美月の記憶が喪失したように思うのだが、記憶のメタファーとしてのあばら骨をDr.梅内(からくり敬三)によって抜き取られたことで「うさぎ病」という記憶喪失のメタファーに見舞われ、あばら骨の適合移植が必要になっているという美月の事情との不整合だった。だが、星野大地もまたDr.梅内のもとを逃走した者として語られていたようでもあり、さすれば、Dr.梅内というのは創造主たる神のメタファーなのかということにもなる。だとすれば、どこか映画『神様メール』(
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2017/27.htm )['15]にも通じるニュアンスを帯びてくるような気がする。

 しかし、作者(谷山圭一郎)としてはそういった宗教的な関心はあまりなかったのではなかろうか。それよりも“最後の怪優”を看板とする役者のために、前作『路地裏のメモリー』でのDr.パピーに相当するキャラクター造形が必要だったような気がする。それにしても、芝居というものは面白く、また難しいものだ。『コキーユ 貝殻』を想わせる「十六歳の時の恋とその思い出」を主題とみるならば、本作のDr.梅内や、掏れないものは何もない神業スリ師の梅子(まるみ)の存在は、物語的に必要ないのだが、これは一体何者なのだと観客の視線を惹きつけ、その意味するところに観客の思いを引き寄せる仕掛けとして物語を牽引するうえでは、その怪優ぶり怪演ぶりが思いのほか有効に作用しているように感じた。少なくとも同じ手法を映画で講じても、よほどの芸達者が担わなければ、観る側を納得させられないような気がする。

 また、最後の喪服での葬送と思しき演出からは、束の間取り戻した記憶の共有により三十六歳で心中したと思しき、美月と大地なのだが、YU☆KIの演じる美月に三十六歳は無理としか思えないのに、その醸し出すある種の透明感が十六歳以降、世間に出ることもないサナトリウム暮らしをしたことでの世間擦れのなさとして、違和感をもたらさないどころか役柄に嵌っているように感じられたことが興味深かった。これもまた、舞台なればこそのことのような気がする。




 TRY-ANGLEの演目にいかにも相応しく、二匹の兎の名がアリスとテレスになっていた『ライフレッスン』は、開幕前の舞台を観て、役者の入退出は客席側から行うのかと思ったほどにぎちっと舞台装置が組み込まれていた閉塞イメージからすると、少年(三上綾佳)の父親(領木隆行)以外の人物は全員、引き籠りになっている少年の心中に立ち現われてきた者ばかりだったということなのだろう。とりわけ重要なのは、少女(山本優依)の存在なのだが、後段のライフレッスンの模様からしてもリアルの訪問は一度もなかったのだろう。

 また、大学紛争当時のものの引用と思しき台詞があったり、少年の父親が息子の恋愛対象の理想イメージとして微かな笑窪のかわいい“檀ふみ”などと言ったりする一方で、最後に携帯型のビデオカメラによる撮影場面が登場することから、いったいいつの時代の作品なのだろうと訝りつつ、小学生の引き籠りやLGBTを扱った題材の現在性に瞠目させられるようなところがあった。

 少年が主人公だが作者は女性だし、もしかすると檀ふみの件は、女の子らしくないなどと言われていたのかもしれない作者がかつて父親から言われた実体験に基づくものではないかなどと想像して帰宅後に検索してみたら、奇しくも還暦を迎えたばかりの僕と同じ生年だった。それなら、大いに得心がいく。作品は、'90年代のはじめのほうのもののようだ。ホームビデオも既に普及し小型化していたように思う。さすれば、モチーフの先進性にはかなりのものがあると改めて感心した。

 しかし、そのこと以上に響いてきたのは、当日配布のリーフレットのあらすじに記載されていた「大事な人が消えていく度に、大事な物が消えていく度に学んだ、生きていくためのライフレッスン」との記述で、あの些か面倒臭さが強すぎる父親の元を去って行った母親(登場しない)や亡くなった愛犬(墓標のみ登場)に対する喪失感が少年にあったにしても、リーフレットの制作に名前がクレジットされている前田澄子さんが先月に満26歳の若さで亡くなっていることを知っている身には、そのことを抜きには観られない作品でもあった。

 本作の11歳になったばかりの少年が、人の状況は十年ごとに変わっていくとして、二十歳の自分、三十歳の自分、…六十歳の自分、その後の自分を夢想するという形で、未だ生きていない時間を少女とともに演じるライフレッスンを観ながら、非常に複雑な思いに駆られた。この舞台を演じ作っていた劇団の仲間たちの心中にはいかばかりのものがあったことだろう。




 松山の劇団パッチワークスの企画による4都市公演での高知の演目は、ティッシュの会【大阪】による『にぎる』、World Wide Works作品『風習』のシアターホリックによる上演【高知】、島根県雲南市の劇団ハタチ族による『10万年トランク』、そして、パッチワークスによるタイトル不詳作だったわけだが、その積集合に当たる部分は何なのだろうと振り返ってみると、スタイルはそれぞれ大きく異なっていたけれども、いかにも若者らしい“生への問い掛け”があるように感じた。

 最も面白く観たのは最後に置かれたパッチワークスの演目だったように思うが、それでも、4作品120分余を観て、もっとも印象深く残るのが中島みゆきの♪ファイト!!♪の言葉だったりするのはどうよと思わぬでもなかった。ただ、パッチワークス主宰の村山公一が演劇とは何か、ということに関して、舞台と役者と観客があれば成立するものとの言葉を引用して、ステージ前に観客の象徴に見立てた空の椅子を置いたことで、これまた如何にも定義のしにくいフーゾクなるものが何だろうということに対し、客とフーゾク嬢と風呂なりベッドなりの場があれば成立するものとして示しているようにも思えたことがちょっと面白かった。




 東京から初参加した立本夏山のひとり芝居は公演チラシが喚起していた野性的イメージとはまるで異なる精神性の高いステージで、大いに意表を突かれた。若い時分に手にした『高村光太郎詩集』(彌生書房)が今も書棚にあるけれども、ナルシスト的イメージを強く持つようになった高村に対する僕の関心は最早あまり高くなく『智恵子抄』にしても、十四年前に観た同名映画['67]に感じた美化された純愛物語の印象が強かったのだが、その映画のような作劇とは全く違っていて、高村光太郎の詩そのものをダンスをしながら読み上げていく作品だった。

 踊りながらの詠唱ではない朗読というのは、動きがあるぶん却って難しいのではないかと思うが、言葉が命とも言える詩の言葉をいささかも乱すことなく、明瞭に聴かせる技量と身体づくりは大したものだと感じた。立本夏山はまた声質がいいので、より引き立つように感じた。

 ポスト・パフォーマンス・トークでの話によれば、レモンを添えてステージ中央部に置かれた像は、立本自身のオーダーによるもので、イメージプランも彼自身が出したもののようだが、どことなくロダンの『ベーゼ』を抽象化した風情を漂わせていて、とても似合っているように感じた。

 緑の光、桃色の光でときどきに映し出されていた人型の動きは何だったのだろう。緑が光太郎で桃色が智恵子だったのだろうか。あまりピンとこなかったけれども、僕が生まれる二年前に逝去している明治生まれの詩人の作品を現代に蘇らせるうえで、ダンスという手法だけでなくテクノロジーの部分を盛り込むことの意味というのは、何となく分からないでもない。なかなか意欲的で、興味深い公演だったように思う。しかし、チラシのほうの野趣だけは、どうにも不可解だった。




 何事によらず自然体が好きで、高校の卒業アルバムのクラス標語に上杉鷹山の名言として知られる「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」をもじって「成れば成る 成らねば成らぬ 何事も 成るも成らぬも 事の成行き 〜自然流〜」などという不埒なもじり歌を掲載していた僕は、クスリもサプリもダイエットも嫌いだから、ギラギラ薬局の処方する“107歳までギラギラしながら生きる”クスリなどにはまるで心惹かれないのだが、主要メンバーが四十路に入っているとは思えないシャカ力の舞台のキレのいい身のこなしにはかねてより大いに魅せられている。今回もそのあたりは健在でなかなかのものだと思った。なかでもAI阿野田由紀のピッチングには感心した。

 そんなシャカ力でも、年齢ネタを正面に据える歳にはなっているのだなと、むしろ青年の心に目を向けているように感じられた前回ラリー公演の『シャカロック』に比して、歳相応の問題意識を作品化しているような気がしたが、作者が行正忠義から井上琢己に変わっても、ストーリーで物語ろうとせずにイメージ力で語ろうとするシャカ力の創作姿勢に変わりはない。

 驚いたのは、劇中で語られていた「2007年以降に生まれた日本人の50%以上が、107歳まで生きる可能性がある」というものが、実際に公表されている説だとの井上のPPTでの話だった。チラシにあった釈迦像からも、てっきり百八つの煩悩との関係のなかで創作されたものだろうと思っていた。奇しくも客席からの質問にそれと同じ意図からのものがあって、井上が回答したものだが、その答えにはすっかり意表を突かれた。











  ヤマ

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2018年07月28日

2018年9月8(土)〜12(水)移動テント劇団どくんご『誓いはスカーレット』東京公演開催!

2018年9月8(土)〜12(水)移動テント劇団どくんご『誓いはスカーレット』東京公演開催!

鹿児島の奥地に拠点を置きながら、移動テント小屋で全国縦断ツアーを行っている「劇団どくんご」。ツアー30周年目を迎える2018年は、九州から北海道まで全国32箇所、78ステージを予定。毎回満員! 今年は、念願叶って東京にもやってきます。

劇団どくんご公演 第32番
誓いはスカーレット

出演|五月うか、2B、石田みや、泰山咲美、クヌギタナオヒト 
構成・演出|どいの  *前夜祭、日替わりゲスト有!

日時|9月8(土)、9(日)、11(火)、12(水)19:30開演(開場30分前)
場所|葛西臨海公園展望広場 特設W犬小屋Wテント劇場(葛西臨海公演駅徒歩10分)
料金|前売・予約3,000円/当日3,500円/中高生1,500円/小学生500円
予約・問合せ|
どくんご東京実行委員会(嚮心塾内) 
Tel:03-3334-0481  Mail:kyoushinjuku@apost.plala.or.jp

*公演情報の詳細は、下記をご覧ください。
http://www.dokungo.com

【劇団どくんごの演劇の特徴】  by 五月うか(劇団どくんご)

劇団どくんごは、野外・テント演劇の持つ可能性と魅力を探求し、より多くの方にその楽しさを知っていただきたいと、テント公演全国ツアーを始めて30年になります。冬にツアーの準備と稽古をして、春から11月の終わりまで全国を回ります。
どくんごの演劇は、従来の演劇の枠を超え、ストーリーに頼らない、見て・きいて・外気を感じて、五感で楽しむ「体感型エンターテイメント」として、全国で演劇に馴染みのなかった幅広い年齢層の皆様に好評を得ております。
公演地によって、小学生のお子さん連れのお客さんの多いところや、中学校の先生方が受け入れで客席の半分が中学生といった公演地もあり、ストーリー内容に縛られずに、俳優の掛け合いのリズムや、歌やダンスといった生の舞台ならではの身体感・躍動感を楽しんでいただけるよう工夫しています。
楽しみや娯楽のたくさんある世の中ではありますが、各世代や趣味の合う人に小さく分かれて楽しむことの多い時代だと感じております。100人入れば満員の、小さい仮設劇場に、趣味も世代も違ういろいろなお客さんが膝を並べて、それぞれに楽しむ。たまたま通りかかった人も舞台の向こうから観ている、といった、野外の村祭りのような雰囲気が貴重だと感想をいただいております。ぜひお知り合いお誘いあわせて、楽しんでいただきたいと思います。

【公演について】

どくんごの公演には、具体的なストーリーはありません。目の前にいる俳優の声、身体によって、即興を含めたライブ感を最大限に生かす作風。生の楽器演奏やテントの外に広がる風景や音とも相まって、幅広い年齢層の方が、それぞれの視点で楽しんでいます。 めまぐるしく変わる「背景幕」、終わったあとの「交流会」も風物詩です。

【劇団どくんご】 

1983年、埼玉大学・衛生短期大学演劇研究会を母体として発足。小劇場・ギャラリー・喫茶店・学校・街頭・野外等で公演を行う他、1988年からテント劇場による全国ツアーを開始。2009年、拠点を鹿児島に移し、長期全国ツアーを開始。 
2009年『ただちに犬 Deluxe』全国38箇所、66ステージ/2010年『ただちに犬 Bitter』全国36箇所、71ステージ/2011年『A Vital Sign−ただちに犬』全国40箇所、82ステージ/2012年『太陽がいっぱい』全国42箇所、80ステージ/2013年『君の名は』全国38箇所、70ステージ/2014年『OUF!』全国38箇所、73ステージ/2016年『愛より速く』全国37箇所、87ステージ/2017年『愛より速く2号』『愛より速くFINAL』全国37箇所、68ステージ
http://www.dokungo.com
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2018年07月13日

【7/28-9/2】としまアート夏まつり2018 開催!



◆としまアート夏まつり2018◆


日程:2018年7月28日(土)〜9月2日(日)

会場:あうるすぽっと、区民ひろば、ぞうしがや こどもステーション、東武百貨店 池袋店

公式WEBサイト→ https://toshima-saf.jp/


アートと出会えるおまつりとして、毎夏豊島区で開催されている『としまアート夏まつり』。12回目となる今年、区内複数の会場で、様々なジャンルのアーティストによる作品や参加型プロジェクトがおこなわれます。


あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)ではメインプログラムである「子どもに見せたい舞台」シリーズを開催。0歳児から入場可能な演劇公演です。8ヶ所の区民ひろばでは、プロの俳優による「よみしばい」を実施。演劇に触れるきっかけをご用意します。また、アニメーション上映会や親子向けのライブなど、様々な企画も展開されます。子どももおとなも一緒にアートを楽しめる豊島区発の『としまアート夏まつり』に、今年もぜひご期待ください。



【プログラム一覧】

■子どもに見せたい舞台vol.12 おどる童話『THE GIANT PEACH』

振付・構成・演出:スズキ拓朗

日程 8月6日(月)〜12日(日) 全10ステージ 

会場 あうるすぽっと

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program01/


■よみしばい『星の王子さま』

アーティスト:Theatre Ort

日程 7月28日(土)〜9月2日(日)

会場 豊島区内 区民ひろば各所

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program02/


■アーティストとあそぼう!「親子で遊ぶ からだワークショップ」

アーティスト:松岡大

日程 7月28日(土)@11:00〜12:00 / A13:30〜14:30 入れ替え制

会場 ぞうしがや こどもステーション

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program03/


■「スティールパンのデュオライブ!」 親子で楽しむ ぷちライブ!【満員御礼】

アーティスト:トンチ&佐々木謙太朗

日程 8月18日(土)@11:00〜12:00 / A14:00〜15:00入れ替え制

会場 ぞうしがや こどもステーション

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program04/

 

■夜空の屋上上映会―短編アニメーションと夕涼み―【満員御礼】

ナビゲーター:水江未来

日程 9月1日(土)18:30〜19:30 ※荒天の場合は翌2日(日)に順延

会場 東武百貨店 池袋店 8F屋上 「スカイデッキ広場」

詳しくはこちら→https://toshima-saf.jp/program05/


【主催】としま文化創造プロジェクト実行委員会

(豊島区、豊島区教育委員会、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、NPO法人芸術家と子どもたち、公益財団法人としま未来文化財団)


【助成】 一般財団法人地域創造

平成30年度 文化庁 国際文化芸術発信拠点形成事業(豊島区国際アート・カルチャー都市推進事業)


【としまアート夏まつりに関するお問合せ】

NPO法人アートネットワーク・ジャパン

TEL:03-5961-5200/MAIL:info@toshima-saf.jp


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2018年05月18日

'18. 5.12. 高知パフォーミング・アーツ・フェスティバル2018 向井山朋子「HOME」









会場:赤岡町赤れんが商家

コンセプト・演出・映像・写真・振付:向井山朋子

パフォーマンス:湯浅永麻

映像・技術監修:遠藤 豊


 珍しくも妻から誘われたライブ公演なのだが、緊張感のあるパフォーマンスレベルの高さに観応えがあって、さまざまな触発を受け、すっかり魅了された。古民家の一室に設えられた異空間と言ってもいいような閉塞感を際立たせるように今は見掛けることもなくなった昭和風のブラウン管テレビの画面に開演前から映し出されていた“スレンダーマシーンのTV通販”というのは、健康食品のCMとともに常日頃、僕が“最も不思議な現実離れ感覚”を呼び起こされるイメージなのだが、作り手にもそういう思いがあるのではないかという気がした。スレンダーマシンを装着するだけで引き締められるイージーな身体とは対極にあるような鍛えに鍛えた身体による見事なパフォーマンスを観ながら、いったいどういう鍛え方をして、どういう筋肉の使い方をすれば、かような身体表現ができるようになるのだろうかと湯浅永麻の一挙手一投足に観入っていた。


 冒頭、後ろ向きに正座したままの着物姿で振り掻き乱す黒髪の様々な動きに“伊藤晴雨のあぶな絵”を想起させられたのだが、その後に続く下着姿での打擲や震え、怯えを観ながら、何かに強く囚われ、ひどく傷み窮屈になっているものが何かを想ううちに、思春期の素の女性の心象の象徴のようなものを感じたのは、ひどく強調された時計の響きに寺山修司の遺作『さらば箱舟』を想起させるような場面が現れたり、ぶちまけられる幼い時分から今に至る大量のスナップ写真や、堀内佳子の映画『赤ぱっち』や黒澤明の『夢』を想起させるような狐の面を付けて顔を隠し衣服をまとうことで、ようやく震えが止まり滑らかな動きを手に入れることができるようになる姿を観たからかもしれない。『さらば箱舟』を想起したことには、古民家の一室という場の佇まいが大きく作用していたように思う。


 しかし、面を取り衣服を脱いで素に戻ると忽ち閉じ籠る鬱屈を抱えていたような気がする。沢田研二の歌う♪勝手にしやがれ♪を映し出すTV画像とともに繰り広げられたストリップステージさながらの赤い照明と踊りを観ながら、それもまた思春期の女性の大いなる鬱屈であるように感じた。この調子でずっとツラく苦しい心象イメージを続けられると難儀だなと思い掛けたころ、程よくトレンチコートの男との恋愛に恵まれたようで、身動きできない心の縛りからのまさに“脱皮”を果たし、閉塞していた自身に風穴を開け、素のまま外へと飛び出していけるようになっていく姿を見届けるに至り、ますますもってこれは寺山修司じゃないかと思ったりした。


 帰途、「なかなか観応えがあったね」と話し合っていたら、妻から「♪勝手にしやがれ♪が可笑しかったね」と言われ、ストリップダンスみたいなパフォーマンスのことを言っているのかと怪訝に思ったら、パフォーマーの湯浅永麻が田中裕子に似ているからの沢田研二だと思ったようだ。言われてみれば、確かに似ていたが、なぜ沢田研二なのかということに僕は、全く気付いていなかったので、感心しきりだった。




 その日の午後、映画『勝手にふるえてろ』(監督 大九明子)を観たら、奇しくもこれは午前中に観た『HOME』そのものではないかという気がした。異常でも偉人でもない24歳、男女交際未経験のOL江藤ヨシカを演じた松岡茉優が実に巧くて、自分に自信がないくせに自意識だけは過剰なまでに働き、表には出せない“上から目線”と“未熟な訳知り顔”を自身の内で繰り返してばかりいるという、どうにも手に負えない“若い女性の面倒くささ”を見事に体現している作品だった。『HOME』のようにツラさ苦しさが前面に出るのではなく、いささかカリカチュアライズされた若い女性の手に負えないめんどくささの活写に観ていて微苦笑の絶えない作品なのだが、何かひどい囚われによる窮屈な不自由を抱えている点でぴたりと重なっていた気がする。


 さすれば、『HOME』での♪勝手にしやがれ♪は『勝手にふるえてろ』からきたものでもあったのかもしれない。昨冬、東京では大ヒットしていたそうだから、それも大いにありそうに思った。





コープスパフォーマンス『ひつじ』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2011/43.htm

『さらば箱舟』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1984j/03.htm

『赤ぱっち』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2005j/14.htm

『夢』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1990j/01.htm








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

      (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2018年05月16日

テアトル・エコー公演 『もやしの唄』(高知市民劇場第332回例会)









'18. 5.11. 会場:県民文化ホール・オレンジ


 小川未玲の書いた本作を初めて観たのは、十一年前の地元劇団での公演だ。その演劇センター'90は、いまはもう解散しているが、元の劇団員は演劇活動を続けていて、その一人である現在カラクリシアターを主宰している谷山圭一郎を初めて観たのもそのときの公演だった。彼の演じた恵五郎の印象が妙に強かったせいか、今回の恵五郎は少々物足りなく、近所の中華屋で働く気のいい九里子(小泉聡美)が惹かれるのは恵五郎ではなくて、村松幸雄(川本克彦)のほうだろうという気がして仕方がなかった。泉商店の先代時代からの従業員だった明治生まれとの近藤喜助を演じていた後藤敦が、明治大正昭和を生きてきた人らしい佇まいを思いのほか所作に窺わせていて目を惹いた。


 それにしても、機関紙に転載された小川未玲の記事によれば、2012年が八年ぶりの再演だったようだから、演劇センター'90の公演は、初演からわずか三年という早さであることに驚いた。十一年前に、僕よりも十一歳年下の小川未玲が書いた「変わらなくても よかったのに…」との台詞に、少々小癪なものを感じた思いが今回はいささかも湧いて来なかったのは、僕自身の寄る年波のせいなのかもしれない。


 人々が共に暮らす繋がりの醸し出す温かみというものを、十一年前よりも素直に感受することができたように思う。いまではもう夜中に『もやしの唄』を聴いたことのある人なんて本当に一人もいなくなっているのではないだろうか。


 折しもふとしたことから『この世界の片隅に』の原作漫画を読んだことから、映画化作品の公開時に綴った日誌を開くと、「戦況が悪化するなか、すず(声:のん)の呟く「いがんどる…」が心に深く刺さってきた。本作に描かれた戦前・戦中・戦後まもなくの日本を僕は同時代では知らない。わずかに薪で風呂を焚いたことや直火で飯を炊いた経験はあるけれども、日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活からは既に遠くなっている」と記している一節があった。『もやしの唄』にはまさしくこの「日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活」が描かれていたように思う。


 観劇後のバックステージツアーに誘われ、井戸からの手押し汲上ポンプから実際に水が汲み出されていた舞台装置を見分した。遠い昔、僕の家にもあったものだが、取水口に袋掛けしていた布に赤錆が付着して色付いているさまが施されていて、その芸の細かさに感心するとともに、懐かしい想いが湧いた。




http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/4-28.html











  ヤマ

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     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2018年04月18日

おさらい会vol.02『宮城野-MIYAGINO-』









'18. 4.15. おさらい会vol.02『宮城野-MIYAGINO-』

会場:劇団33番地 蔵の稽古場


 シアターTACOGURA公演#007『イプセン 民衆の敵』でカトリンを演じて魅力的だった伊藤麻由の演じる宮城野に、艶と気丈が確かに備わっていて、なかなか刺激的な作品になっていた気がする。女郎の宮城野と彼女が惚れている絵師見習いの矢太郎(山田憲人)が交わす会話のくるくる変転する言い分に、何が本当のことなのか、そして、宮城野が「あたい、あれが好きな女なんだと思うんです。…あれっていっても、いやらしい意味じゃない…男の人に抱かれることじゃないのよ。」と最初に言っていた「あれ」とは何か、ついつい考えさせられた。


 全体的には、どうやらのっぴきならぬ事情により別れを果たさねばならなくなった二人が互いを慮った口上を交わしていたような気がする。されば、唯一、偽りなき真情が語られたのは、矢太郎の去った後の宮城野の独白場面だけということだ。ならば、矢太郎との駆落ちと写楽殺害を孫娘のおかよが告げに来たのは事実だということになるが、おかよは、矢太郎が言うような「うぶなお方」でも、宮城野が矢太郎に告げたようないじらしいことを言う女でも、なかったことになる。それでも宮城野が、おかよの実像を伝えるどころか、矢太郎を想って写楽殺しまで引き受けようとしたのは、何ゆえだったのか。


 最後の宮城野の独白場面での「いいんだ、いいんだ、それもこれも、みんな、あたいの、あれが好きな性分から来てるんだもの。だれを責めるわけにもいかない」を思い返しながら、当日配布の演出ノートで触れられていたキリスト者的なものとしての受苦や自己犠牲よりは“貧乏くじ”という言葉が浮かんだ。宮城野は、別れも告げずに姿を消しても不都合なかったはずの矢太郎がきちんとけじめを付けに来てくれたばかりか“いい値で売れるはずの役者絵”をくれたことが無性に嬉しかったのだろう。そして、どうにも江戸を去らねばならない事情によって姿を消すのであって、宮城野に愛想をつかしたのではないと知らせてくれたことへの返礼に宮城野が矢太郎の心理的負担を軽減しようと騙り話をしたことに対して、自分への執心が深いことをつくづく感じ取った矢太郎が、絵を返してもらうと悪態をつき、自分を訴え出るかもしれないとまで言って、愛想尽かしをさせようと応えてくれたことに痺れたのだろう。あのとき宮城野が「あたいが、どうして、その絵をこんなにほしがってるか、いつかわかるよ。」と言ったのは、そういう意味に違いない気がする。宮城野が床に入ることを誘っても応じなかった矢太郎が別れに際して頼んだ裸身を見せてくれとの願いに応えていた場面を観ながら、『人間の條件』(監督
小林正樹)の梶夫妻を想起した。宮城野は、本当は矢太郎が殺しのできる男などではないことを確信していたのではなかろうか。


 いつも貧乏くじを引くことを自分の性分として積極的に引き受け拠り所にするしか、苦界に沈んだ自身を支え気丈に生き延びる術がなかったと思しき宮城野の哀しみと、そのなかで施された“夜なきうどん”に始まる矢太郎から受けた温かみへの想いの強さが偲ばれて心に残った。宮城野を演じた伊藤麻由が、しどけなく脚を覗かせつつ、艶と気丈を確かに伝えていた声の調子と眼差しの揺らぎに誘われたのかもしれない。もっときちんとした照明や道具を設えた舞台のなかで味わってみたいと思った。そして、本作をそんなふうに解した自分からすると、山田憲人の演じた矢太郎は、少々人物造形が違うような物足りなさが残った。


 本作を演出するうえでの重要ポイントは、矢太郎をどのタイミングで退出させるか、なのだろう。今回の公演では、テキストを提供してくれていたから、それに従うと、彼の最後の台詞「こっちも、もう、一ぺん、言うぜ、あ、ば、よ。」の後のト書きに(虚勢とすぐわかる、すごんだポーズをするが、やがて…)とあって(肩を落とした後ろ姿が哀れである)となっていて、作者が矢太郎退出のタイミングを指定していないところが目を惹いた。


 つまり「唯一、偽りなき真情が語られたのは、矢太郎の去った後の宮城野の独白」となるとすれば、矢太郎の「あ、ば、よ。」の後に続く宮城野の台詞「なんだい、なんだい。じゃ、ひょっとしたら、三人で最初からしめし合わせて、ぐるで……殺しを……」の時点で矢太郎がいるのかいないのかが、とても重要になってくるわけだ。水呑百姓の味方の侍だったという高野信三郎が決して紳士などではなくて、宮城野を「手ごめにして、思いきりなぐさみものにして、それっきり、ドロンの、人間の屑」だったとの話はともかく、「おかよだってそうだ」の部分を矢太郎に聞かせた言葉とするのか、矢太郎がいなくなった後での独白の言葉とするのかでは、意味合いが全く違ってくる。


 演出プランとしては、この日の公演のように矢太郎の「あばよ」で退出させるのもあれば、彼の(肩を落とした後ろ姿)に向けて投げつける言葉としつつ、おかよにまつわる部分は聞かせて「いいんだ、いいんだ、それもこれも、みんな、あたいの、あれが好きな性分から来てるんだもの。」からを独白にするのもあろう(これが最も多そうな気がする)し、終わりのほうの「焼けこげになりそうな人がいたら、あたいが、身代わりになってやるんだ……それが、人のつとめというものだ!……」をも矢太郎の後ろ姿に向けて喋らせるのもあるだろうと思う。その後のト書きの(寺の鐘が鳴る)までには退出させないといけないとは思うが、台本で言えば、やたらと多い「……」の間のどこでどういうふうにして退出させてもいいように書いてある気がした。


 それで言えば、おかよが決していじらしい女ではないことを語る宮城野の言葉を矢太郎に聞かせる台詞とはしなかった本公演の演出(西村和洋)を、僕は大いに支持している。あれが矢太郎に向けての言葉となっては、矢太郎の施した“愛想づかせるための悪態”に対して宮城野も同じことを返したことになってしまい、“あれ好き”の哀しみが際立ってこないことになるからだ。


 だから僕は、師匠殺しの件について、宮城野の独白としての「なんだい、なんだい。じゃ、ひょっとしたら、三人で最初からしめし合わせて、ぐるで……殺しを(騙りやがって)……なんだい、なんだい、人をバカにして……」と受け止めている。これが矢太郎に向けた言葉ではないのなら、少なくとも宮城野にとっての真実はそこにあったはずだ。


 矢太郎の殺しを“騙り”と観るほうが、やはり“夜なきうどん”の彼に相応しいと思わずにいられない。加えて、冒頭で宮城野から床に入ることを誘っても応じなかった矢太郎の願いに応えて「いいわ、なってあげるよ、裸に。けど、もう、崩れちゃってるんじゃないのかねえ、あたいの体なんか。」と言いながら、宮城野が客席に背を向けて帯を解いていた場面を観ながら、『人間の條件』での美千子(新珠三千代)の感慨深い場面を想起した僕の心象にも見合う気がしている。矢代静一が本作を書いたのが1966年なら、当時空前の大ヒットをした映画版も含めて彼はきっと観ていて、あの場面に影響を及ぼしているに違いないと思った。


 だが、演出者は矢太郎の殺しを“騙り”とは解していなかったようで、それどころか「矢太郎は写楽の偽絵を宮城野に渡すことで金を無心しにきた」との捉え方さえしていたそうだ。僕のなかに少々人物造形が違うような物足りなさが残ったのも当然だという他ない。











  ヤマ

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     (『間借り人の映画日誌』)

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2018年04月03日

『報われません、勝つまでは 土佐弁ver.』現役高校生版・かつて高校生だった者たち版









'18. 3.25.  会場:高知市文化プラザかるぽーと小ホール


 同じ田上豊の作・演出による芝居のダブルキャストを「現役高校生版」「かつて高校生だった者たち版」とすることで少し造りを変えてきている2ヴァージョンの芝居を観て、かなり触発されるものがあって、大いに楽しめた。かつて高校生だった者たち版第2公演を先に観てから、現役高校生版第3公演を観たのだが、僕の好みは断然、現役高校生版のほうだった。高校ハンドボール部の部室一場の芝居だけに、高校生が高校生を活き活きと演じることで生まれているエネルギーのほうが、演技者の技術力の差異を上回っていたように思う。


 加えて、中心となる高校生部員以外の配役について敢えて対照的に配したと思しき、工事現場の男 福永弘と謎の女 本山裕美において、現役版の人物造形の魅力が断然上回っていたことが大きく作用していた気がする。現役版の木下瑞貴と浜田あゆみがなかなかよくて目を惹いた。かつて版の福永を帰化人にして台詞がろくに聞き取れない人物にしていたことで得られたものが、僕にはなにもなかった。


 先に観たかつて版では“土佐弁ver.”と銘打った“言葉”への囚われが、僕のほうに生じていたのかもしれないが、微妙な違和感が妙に気になった。なまじ地の言葉であるだけに日常語としてよりも舞台台詞として聞こえてくる響きが些細なところでも気に障ってくるのだろう。舞台経験が豊富で芝居語としての発声に経験の豊かなほうに、つい舞台口調が現れてくることに比べ、舞台経験の少ない若しくはないほうにはその虞の余地がないことが、図らずも幸いとなっている気がした。また、高南台高校スポーツ特進クラスの一雄が落ち零れた旧知の高知学院生の克人に与える屈辱にしても、かつて版の克人の顔を靴で踏みつける行為と現役版の克人の顔に水を浴びせかける行為とでは、同じく弟
浩二の怒りを買うにしても、かつて版のほうが遥かに味が悪い気がした。


 そんなこともあってか、かつて版の高校生たちの見せる強気と弱気の錯綜や暴力性に対して、僕のなかでは笑いが湧いてくることがほとんどなくて、部室のロッカーに施してある落書きの“働かざること山の如し”がいちばん可笑しいという少々勿体ない観劇になっていたのだが、現役版は思いのほか面白くて、随所で笑え、高校生の発揮する反射的な暴力性に対しても、かつて版に感じた厭味をほとんど覚えることなく、十七年前の『この窓は君のもの』['95](監督 古厩智之)の映画日誌に記した三十二年前の拙詩のことを思い出した。その詩の題は“失くしたもの、犯していること”なのだが、まだ失くしてはいない現役高校生と既に失くしているはずのかつて高校生だった者たちとでは、同じ場面を演じても生み出すことのできる空気に違いがあるのは、当然なのだと思った。でも中学生は過ぎ、高校生だから、ゲン先生が諭したように、喧嘩は奨励されると同時に制止されなくてはならなくなってもいるわけだ。

 





『この窓は君のもの』['95]の映画日誌http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2001j/11.htm














  ヤマ

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          (『間借り人の映画日誌』)

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2018年02月19日

時々自動『リハリハ5』


こんにちは。時々自動です。
リハリハシリーズも今回で5回目となりました。
この公演は「コンサート・リハーサル」のための準備公演ですが、今回はこれまでみていただいたダンスや音楽の要素に加え、新聞詠みやボーイズものといった新しい構成要素の現在進行形をみていただくつもりでいます。
新聞詠みとは、元々は文字が読めない階層の人たちに社会的な出来事を音楽にのせて物語化し聞かせるメディアでありました。また、ミュージカル漫談の元祖“あきれたぼういず”はその時代を風刺した歌や漫談でお客さんたちと当時の社会的な問題を共有するような、これもまたメディアでありました。それらを今日的なスタイルにつくりかえ、劇場空間でのダイレクトメディアとして、時々自動からの情報を発信することを試みたいと思います。
ご期待ください。

時々自動『リハリハ5』
〜2019年2月に上演予定の『コンサート・リハーサル』に接近してゆくステップ公演その5〜

2018年3月20(火)・21日(水)
@STスポット(http://stspot.jp/
横浜市西区北幸1-11-15 横浜STビルB1 TEL : 045-325-0411
横浜駅西口徒歩8分

3/20(火) 19:30
3/21(水) 13:30/17:30 
*開場は開演の30分前

【出演】朝比奈尚行 岡本唯 岸山絵美 鈴木光介 高橋牧 田村龍成 日高和子 / 伊地知一子 板垣あすか 高野真由美 高橋千尋 瀧澤綾音 三井耶乃 

【構成・演出・音楽】朝比奈尚行
【音楽】今井次郎 鈴木光介 田村龍成
【主催】泣eィコ・ディコ

【チケット】(日時指定・全席自由)
予約:2500円 当日:2800円


【チケット取扱い 】(時々自動)
〇Eメール:ticket@tokidoki-jido.com
*お名前、フリガナ、観劇の日時、枚数、連絡先をお知らせください。確認後、予約完了メールを返信いたします。
〇予約フォーム:
https://481engine.com/rsrv/pc_webform.php?d=980eb799e0&s=&

【問い合わせ 】
時々自動 mail@tokidoki-jido.com 03-6657-7309
http://www.tokidoki-jido.com/
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2018年02月04日

現代地方譚5 アーティスト・イン・レジデンス須崎関連企画『須崎のまちの物語』









'18. 1.28. 会場:高知県須崎市立市民文化会館大ホール


 主催の「すさき芸術のまちづくり実行委員会」というものがいかなる経緯で生まれたものか、かつて文化行政に関心を抱いていた者としては、気になる公演だったものの、一時間程度の公演に往復二時間余も掛けることになる少々遠方に会場があることから、映画観賞のほうを優先して見送りかけていたのだが、行ってみて良かった。思った以上に響いてきたのは、現に須崎に暮らす人の取材をしてみて劇作家の心を捉えた話をモチーフに、作品作りをしていたからなのだろう。血の通った話はやはり強いと改めて思った。


 リーディング作品としての上演となっている割には、演者のほとんどがろくに台本を観てなかったり、衣装や小道具、ベッドの搬入などがあったのは、作品企画のブレと言えなくもないながら、僕には効果的に作用してきたように思う。もっとももしかすると、リーディングだけで勝負するのが心許なかったからなのかもしれない。


 戦時中の逸話や、須崎の街が非常に活気づいていた時代の話、高知県で最初に鉄道が敷設されたのは須崎港からだったといった街の歴史などを『あいつの右手と十四年式拳銃(作・演出:吉良佳晃)』『いももち(作・演出:西本一弥)』『銀の海。銀の魚。(作・演出:サカシタナヲミ)』「まちの声(構成:吉田剛治)」によって描き出していた。


 ややもすると主題が時代にあるのか須崎にあるのかぼやけてきかねないものを、三作品の合間に三人の女性の雑談めいた「まちの声」を入れる構成にしたことが功を奏して、須崎という土地が主題であることを鮮明にしている工夫にちょっと感心していたら、そういう小技を利かせなくても、それ自体で堂々たる「須崎のまちの物語」になっている『銀の海。銀の魚。』が最後に出て来て、すっかりやられてしまった。


 '60年代に全国各地で始まった“青年の船”を通じて出会い、まだ田舎では恋愛結婚など珍しかった'70年代半ばに二十二歳で春野から須崎に嫁入りしてきた女性の今に至る人生の歩みを物語るなかで、今や失われた“昭和の時代の女性の生き様”と彼女が到達した人生観を伝えて圧巻だった。せわしくも同じ日々を繰り返す単調を効果的に描出していたリフレインが利いていて、まさしくかような日々が鍛え上げた生活者のものとして立ち現われていた“須崎を愛する境地”が感動的だった。


 この『銀の海。銀の魚。』ではあまり気にならなかったのだが、そのほかでは、高知に暮らす人々によって高知の言葉で演じられているにもかかわらず、イントネーションやアクセントに違和感のある演者が少なからずいて驚いた。映画などでは、全国公開を前提にするために訛りがきつすぎると伝わらないことに配慮してあえて標準語に近づけたりもするようだが、地元公演においてその必要はなく、どうしてそうなるのか不思議な気がした。出演者に少なからず県外からの移住者が含まれていたのではないかという気もするが、もしかすると、地元出身者であっても、生活の言葉ではない芝居の台詞となると、言葉自体は方言でもイントネーションやアクセントが舞台調になってしまう者がいるのかもしれない。実のところは、どうだったのだろう。











  ヤマ

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    (『間借り人の映画日誌』)

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    (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2018年01月17日

劇団文化座公演『三婆』(高知市民劇場第330回例会)









'18. 1.16. 会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール


 '65年のあの日、かぼちゃ婆の正妻松子(佐々木愛)がもし撤回しなければ、十年後の'75年には四人とも既にこの世を去っていたに違いないと思った。老境にあっての一番の酷が孤独に他ならないことを印象深く描出していた気がする。


 原作者(有吉佐和子)が女性だからかもしれないが、三婆のみならず若い花(山粼麻里)も含め、女性の暗部が鮮やかに炙り出されていたように思う。そこを笑いに仕立てている作品であることが明確に伝わって来つつも、その見事な鮮やかさに生なリアルさを感じて、笑うに笑えない辟易が湧いたりもしたのは、自分が女性ではないからかもしれない。女性たちに比べると、重助(佐藤哲也)や辰夫(筆内政敬)といった男性陣は、老いも若きも、実に素直で他愛もない存在であることに微苦笑を誘われた。


 それにしても、三婆それぞれのキャラ立ちは流石だった。とりわけ際立っていたのが電気クラゲの小姑タキで、演じていた有賀ひろみに感心。キツネと呼ばれていた妾の駒代(阿部敦子)もなかなかのキャラだったけれども、やはりタキには及んでいなかったような気がする。


 '75年と言えば、翌年に大学進学で僕が上京した時期だ。美濃部都政下にあり、本作でも無料化された老人医療費の話とともに高齢者の都営交通無料パスやら多摩動物園の入園券の配布やらがされていた。かつての高齢者福祉の手厚さを見せているようでもあり、行政の福祉サービスというものが、高齢者が生きていく上で真に必要なサービスとはズレていることを風刺しているようでもあり、微妙なニュアンスとなっていたことが時代状況の隔世を語っていて興味深かった。また、舞台では60代から70代の婆として語られていたが、観ている側の感覚からすれば、最後の場面は70代から80代でないとしっくりこなくなっている気がする。


 ちょうど三十年前となる '88年9月の例会で観たときの文化座公演は脚色・演出とも小幡欣治だったものが、当然ながら、演者・演出とも違っているものの、同じ小幡による台本を使っているから、70代〜80代にはならないわけだ。当時、三十歳だった僕が『三婆』をどう観たのかと思って探してみたが、観賞メモを残していなかった。あの頃は、今のような例会感想文集を発行していなかったのか、自分が寄稿していないので残していないのか不明だが、少し残念に思った。








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


          (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

          (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2017年09月25日

10月7日から 『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』 エントランス空間をいっしょに作ろう!

10月7日から始まる柴幸男(ままごと)の新作・劇場作品のために劇場と公共空間をつなぐ場である広場やロビーなどの空間をデザインムジカの安藤僚子とともに作ります!


『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』 エントランス空間をいっしょに作ろう!
http://www.festival-tokyo.jp/17/news/wtkn_entrance/

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』は、隣り合う二つの劇場で、同時刻に、同じ俳優たちによって紡がれる、「距離」をテーマにした作品です。今回は、劇場と公共空間をつなぐ場である、劇場に向かう前のロワー広場、劇場のロビーなどの空間をデザインムジカの安藤僚子さんとともに作っていきます。安藤さんは、ままごとの小豆島や公共空間での創作の際に空間デザイナーとして欠かせない役割を担ってきました。
今回は安藤さんといっしょにエントランス空間を彩る装置を考えて、木材への色付けやカット作業、釘打ちなど手を動かして実際に制作します!装置制作経験がなくても、手ぶらでも参加は可能です。安藤さんをはじめスタッフがサポートさせていただきますので、いつでもご参加ください。

■講師プロフィール
安藤僚子(あんどうりょうこ)
インテリアデザイナー。合同会社デザインムジカ代表。ファッションや飲食などの店舗設計、演劇や科学展示などの会場構成、ディスプレイやアートインスタレーションなど、空間にまつわる幅広いジャンルで活動している。劇団「ままごと」とはTheater ZOU-NO-HANA(横浜、2014-2015)、港の劇場(小豆島、2016)、まちとつくる演劇 「交響曲『豊橋』(合唱付き)」(豊橋、2016)にメンバーとして参加。劇場ではない場所に演劇空間を生み出す企画に参加している。

■活動日
・9/27(水)-10/2(月) 10:30-18:30
・10/3(火)-6(金) 活動時間は未定
場所や時間に関しては、参加者に改めてお知らせいたします。
※作業時間は多少前後する可能性があります。
※下記時間帯のお好きな時間にご参加ください。
※汚れても良い恰好でお越しいただくか、着替えをお持ちください。

■応募資格
作りたいかたならどなたでも!

※高校生以上。
※未成年の方は保護者の同意が必要ですので、後日書式をお送りします。

■参加費
無料

■待遇
ボランティア保険加入(費用はF/T事務局が負担)
※謝礼・交通費の支給はございません。

■お申込み
下記URLよりご確認ください。
http://www.festival-tokyo.jp/17/news/wtkn_entrance/

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2017年09月08日

11/3-5 F/T17『実験と対話の劇場 -新しい人/出来事の演劇- 』

フェスティバル/トーキョー17
『実験と対話の劇場 -新しい人/出来事の演劇- 』

参加アーティスト:演劇計画・ふらっと、 / シラカン / 関田育子 / 玉城大祐
キュレーション:松田正隆


いま、ここで、生まれ続ける「演劇」を捕まえる

 劇作・演出家で、立教大学でも教鞭をとる松田正隆が4組の若手アーティストに声をかけ、自身も強い関心を寄せる「出来事の演劇」をテーマにした実験と対話の場をひらく。
 参加するのはいずれも、劇や空間設計の文法そのものを自覚的に利用、解体、再構築する20代のつくり手。本企画では、それぞれが60分以内の作品を創作、2組ごとに発表し、ゲストを交えたディスカッションにものぞむ。
 目指すのは、単に戯曲の言葉を再現するのではない、その時その場で生まれる現象=「出来事」としての上演。それはまた、「戯曲を書き、上演する」という、ごく当たり前にも思える行為を解きほぐし、再検討することにもつながる。言葉、身体、空間、観客……演劇を構成するさまざまな要素、その間にある力学をいかに利用し、免れ、出来事を起こすか−−。つくり手と観客双方に新しい知覚、思考をもたらす探求と実践がここに始まる。


【会場】
あうるすぽっと

【日程】
A:シラカン / 関田育子
B:演劇計画・ふらっと、 / 玉城大祐

11/3(金・祝)
14:00 A+ディスカッション ☆

11/4(土)
12:00 B+ディスカッション ☆
17:00 A+ディスカッション ★

11/5(日)
14:00 B+ディスカッション ★

【ディスカッションゲスト】
☆=カンパニーメンバー×松田正隆×ゲスト
★=カンパニーメンバー×松田正隆×佐々木敦(批評家・HEADZ主宰)
※その回に上演を行ったカンパニーのメンバーが登壇します。

受付開始は開演の60分前、開場は30分前

【上演時間】
135分(途中休憩15分あり)(予定)
ディスカッション:60分(予定)

自由席(整理番号つき)  一般前売2,500円/ 当日3,000 円、学生1,600円 ほかセット券あり

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2017年07月13日

8/5(土)-9/3(日) としまアート夏まつり2017



イベント名:としまアート夏まつり2017
開催期間:2017年8月5日(土) 〜2017年9月3日(日) 
時間:プログラムによって異なります。
会場名:あうるすぽっと、区民ひろば、巣鴨北中学校、みらい館大明、ぞうしがや こどもステーション、 旧真和中学校 音楽室

入場料:プログラムによって異なります。(無料有)

各プログラム申込み方法ほか、詳細は公式サイトよりご確認ください。

イベント概要:
アートと出会えるおまつりとして、毎夏豊島区で開催されている『としまアート夏まつり』。11回目となる今年、区内複数の会場で、様々なジャンルのアーティストによる作品や参加型プロジェクトがおこなわれます。
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)ではメーンプロジェクトである「子どもに見せたい舞台」シリーズを開催。0歳児から入場可能な演劇公演です。8ヶ所の区民ひろばでは、プロの俳優による「よみしばい」を実施。演劇に触れるきっかけをご用意します。また区立中学校の校庭、廃校施設の校舎などで施設の特性を活かしたアニメーション上映、体験型の演劇や親子向けのライブなど、さまざまな企画が展開されます。子どももおとなも一緒にアートを楽しめる豊島区発の『としまアート夏まつり』に、今年もぜひご期待ください。

参加アーティスト:
スズキ拓朗(振付家・演出家・ダンサー)
Theatre Ort(シアター・オルト)
水江未来(アニメーション作家)
外の刺激+フランケンズ
横手ありさ(唄い手・音楽家)
武徹太郎(音楽家・美術家)
森川弘和(ダンサー)
ほか


イベント備考:◆8月5日(土)〜16日(水)
子どもに見せたい舞台 vol.11おどる童話(どうわ)『まほうのゆび』

◆8月12日(土)〜9月3日(日)
よみしばい『西遊記〜悟空のぼうけん〜』

◆8月19日(土)
短編アニメーションが校舎に映る!「夜空の校庭上映会」
※お申し込みが、定員に達しました。HPにてキャンセル待ちのご予約をお受けしております。

◆8月23日(水)、24日(木)
不思議な学校『ロボット先生!』

◆9月2日(土)
のんびりゆったりミニライブ「親子で楽しむぷちライブ!」

◆9月3日(日)
アーティストとあそぼう!『からだをたくさんうごかそう!』

問合せ:NPO法人アートネットワーク・ジャパン
TEL: 03-5961-5200
メールアドレス:info@toshima-saf.jp

​​
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2017年04月05日

4/14(金)時々自動『リハリハ3』

4/14時々自動『リハリハ3』
〜2018年秋に上演予定の『コンサート・リハーサル』に接近してゆくステップ公演その3〜

シリーズタイトルを『リハリハ』と変えて、さあ来年の本公演の高みに向けて、ステップ五段飛ばしで駆け上がるぞ!とヒッチャキクールな時々自動が、今回は時々演劇の最強ツール「音楽」を駆使してみなさまを挑発いたします。
時々システムによる即興演奏で挑発いたします。
Shaggsまっ青の女性3人ユニットデビューで挑発いたします!
名古屋の伝説的ロックバンド『豆異℃』のボーカル、遠藤豆千代氏の登場で挑発いたします。
お馴染み時々スタンダードナンバーで束の間なごんでいただきます。
朝比奈尚行の時々自動初発表のオリジナル曲6曲で挑発いたします!
ダークファンタジー系新曲4曲で挑発いたします!
クージャミダンスの復活で挑発いたします!
トウシューズ履いたマヌカンショーで挑発いたします!
万障お繰り合わせのうえ足をお運びくださいますようお願いいたします。

朝比奈尚行
【リハリハ3 ティザーCF】
『Tokidoki Convention 1』
https://m.youtube.com/watch?v=AtXJfPsihI4&feature=youtu.be
************
2017年4月14日(金)
@STAR PINE'S CAFE
(吉祥寺駅北口徒歩3分・武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1)

open18:30 / start19:30
adv.¥2900+1drink / door.¥3200+1drink

【構成・演出・音楽】朝比奈尚行
【音楽】今井次郎 鈴木光介 田村龍成
【出演】朝比奈尚行(sax) 岡本唯(g) 岸山絵美(sax) 鈴木光介(tp) 砂川佳代子(cl) 高橋牧(acc) 田村龍成(vn) 日高和子(sax) 渡辺直美(tp) / 伊地知一子(vo) 遠藤豆千代(vo) 三井耶乃(key) 和久井幸一(acc) / 柴田暦(vo) 寺田"Kisa"昌洋(KisamaAlternative)(dr) 中尾果(b)

【チケット取扱い 】
○時々自動 ticket@tokidoki-jido.com
*お名前、フリガナ、枚数、連絡先をお知らせください。
○ STAR PINE'S CAFE(店頭販売のみ)0422-23-2251
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2016年09月26日

アーツカレンダー演劇情報投稿について

フェスティバル/トーキョー16



 



パク・グニョン×南山芸術センター



『哀れ、兵士』



作・演出 : パク・グニョン (劇団コルモッキル)



 



2016年10月27日(木)〜10月30日(日)



 



会場



あうるすぽっと



 



日程



10月27日(木) 19:30



10月28日(金) 19:30



10月29日(土) 14:00★



10月30日(日) 14:00



 



★=終演後、ポストパフォーマンストークあり



※その公演のチケットをお持ちの方は日時を問わず入場可(ただし終演後)



ゲスト



10/29 (土) 14:00の回   パク・グニョン×市村 作知雄 (F/T ディレクター)



 



上演時間



100分



 



言語



韓国語上演、日本語字幕



 



チケット



一般    3500円



当日券   4000円



学生    2300円※当日券共通。当日受付で要学生証提示



高校生以下 1000円※当日券共通。当日受付で要学生証または年齢確認可能な証明書の提示



 



※チケット払い戻し、観劇日時の変更はできません。※未就学児の入場はお断りいたします。※車椅子でご来場のお客様は、スムーズなご案内のためF/Tチケットセンターまでご連絡ください。※チケット料金には消費税が含まれます。※障害者割引 一般前売チケットのみご本人様10%OFF、付添いの方(1名)は無料。F/Tチケットセンター電話予約のみ取扱。(当日受付で要障害者手帳提示)



 



説明 



「生きたかった人々」の記憶が投げかける、「いま、ここ」への問い



劇団名でもある「路地」に生きる庶民の視点から、現代社会の諸問題に大胆に斬り込む、劇作・演出家パク・グニョン。『蛙』(2013)での元大統領をめぐる風刺表現をきっかけに助成金申請の辞退を強いられるなど、国家と芸術表現の間で格闘する彼が、南山芸術センターの協力を得て、この3月に発表した話題作がF/Tに登場する。2015年の脱走兵、1945年の朝鮮人特攻隊員、2004年のイラクで米軍に食品を納入していた業者、2010年に北朝鮮をのぞむペクリョン島付近で沈没した哨戒艇の乗組員たち。本作では、時間と場所の異なる4つの「生きたかった人々」のエピソードが併行して描かれる。国や社会に翻弄された彼らの生きた軌跡、時には笑いさえ交えた記憶の集積は、やがて重いパンチのような「歴史」となって、いまを生きる私たちに迫りくる。被害者/加害者とは誰を指すのか。戦争はどのように始まるのか。真の戦線は、どこにあるのか――。



 



公演サイト



http://www.festival-tokyo.jp/16/program/all_the_soldiers_are_pathetic/



 



チケット取扱い



F/Tチケットセンター festival-tokyo.jp



東京芸術劇場ボックスオフィス http://www.geigeki.jp/



チケットぴあ http://w.pia.jp/t/festival-tokyo/  [Pコード 561-202]



カンフェティ http://www.confetti-web.com/ft2016





としまチケットセンター http://owlspot.jp/



--------------------------以上、掲載希望------------------------------------


-----------------------------------以下、掲載希望--------------------------------------------

フェスティバルトーキョー16



 



Woodcutters
― 伐採 ―』



翻案・美術・照明・演出 : クリスチャン・ルパ



: トーマス・ベルンハルト



 



2016年10月21日(金)〜10月23日(日)



 



会場



東京芸術劇場プレイハウス



 



日程



10月21日(金) 16:00●



10月22日(土) 16:00○



10月23日(日) 13:00●



受付開始は開演1時間前、会場は30分前。



 



●=開演前、劇場ロビーにてプレ・パフォーマンストーク有り。



  10月21日(金)
15:10-15:40



  10月23日(日)
12:10-12:40



  ゲスト



  久山宏一(ポーランド広報文化センター ポーランド演劇・映画担当)



   ×横堀応彦 (F/T プログラム・コーディネーター)



 



○=開演前、劇場ロビーにて演出家によるスペシャルトーク有り。



  10月22日(土)
11:00-12:30



  ※要予約。定員50名



  ゲスト



  クリスチャン・ルパ   モデレーター 鴻英良(演劇評論家)



 



上演時間



260分(途中休憩20分あり)



 



言語



ポーランド語上演、日本語字幕



 



チケット



一般       5500円



当日券     6000円



学生    3000円※当日券共通。当日受付で要学生証提示



高校生以下 1000円※当日券共通。当日受付で要学生証または年齢確認可能な証明書の提示



 



※チケット払い戻し、観劇日時の変更はできません。※未就学児の入場はお断りいたします。※車椅子でご来場のお客様は、スムーズなご案内のためF/Tチケットセンターまでご連絡ください。※チケット料金には消費税が含まれます。※障害者割引 一般前売チケットのみご本人様10%OFF、付添いの方(1名)は無料。F/Tチケットセンター電話予約のみ取扱。(当日受付で要障害者手帳提示)



 



説明



スタイリッシュな空間に映し出される、芸術と社会の退廃



 洗練された空間設計と深い教養に裏打ちされた鋭い批評性で知られるポーランドの巨匠、クリスチャン・ルパの話題作がついに日本初演を迎える。オーストリアの作家、トーマス・ベルンハルトの小説をもとにした本作の舞台は、自殺した女優の葬儀の後に開かれた「アーティスティック・ディナー」。国立劇場の俳優、作家、ホストをつとめる地方劇場の支配人夫妻……パーティーに集う人々は、友人の弔いもよそに、いつものように酔い、不平不満と自虐、自慢の応酬を繰り広げる。いつ終わるとも知れぬ空虚な時間。だがやがて、彼らは本音を吐露し、互いを批判し始め――。



 実際の出来事をもとに執筆され、後に裁判沙汰ともなった原作の衝撃が、ルパの仕掛ける退廃的空間を通じて客席に伝播する。その辛辣な批判の刃は、グローバル化の下で自らの進む方向さえ見失った現代社会と理念なき芸術に容赦なく斬りかかる。



 



公演サイト



http://www.festival-tokyo.jp/16/program/woodcutters/



 



チケット取扱い



 



F/Tチケットセンター festival-tokyo.jp



東京芸術劇場ボックスオフィス http://www.geigeki.jp/



チケットぴあ http://w.pia.jp/t/festival-tokyo/  [Pコード 561-201]



カンフェティ http://www.confetti-web.com/ft2016


--------------------------------以上、掲載希望-------------------------------------

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