2020年08月26日

東京芸術公演『いぐねの庭』









東京芸術公演『いぐねの庭』(高知市民劇場第344回例会)
会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール('20. 8.25.)




 もとより我が家は大災害を被っておらず、農家でもなければ、巨木の生えた居久根の庭もありはしないが、渡り廊下で繋がっている隣家に住む母がクラ(相沢ケイコ)より一歳上で、僕と妻がともに幸田伸介・渓子夫妻(手塚正雄・樋川人美)の二歳下、県外に住む長男が幸田家長男の伸也(星野子熊)の三歳下で、その妻やよい(我妻美緒)は長男の妻と同い年、僕と同じように次男もいて、結婚した娘が一人いるところも同じという幸田家と実によく似た年回りだ。

 そのせいもあってか、夫婦で環境型農業に取り組んできた長男伸也から「いぐねの庭」を守る気概もなく、農家のくせして国や農協の言われるままに農業を駄目にしてきたのは親父たちだと伸介が責められているのを観て、僕までも、目には見えない大事なものを壊されるままにこの国を駄目にしてきたことを責められたように感じた。おそらくそれは、伸介や僕と同世代(舞台は九年前に遡るのだから、実際は僕より十歳ほど上という勘定になりそうだが…)なのではないかと思われる作り手の堀江安夫に、その思いがあるからに違いないという気がした。

 なかなか重く辛い物語なのだが、随所に美しい人の心と姿があり、懸命に生きている家族の絆があって心打たれた。ピアノの音色とトランペットの響きがとても心に残る。♪月の光♪とともに幽霊のやよいが現われる場面は、いずれも美しく、とりわけモノローグによる心の叫びの場面に感銘を受けた。うみ(吹田真実)の吹くトランペット【演奏:閏間健太】が実に効いていて、映画でもよく登場する葬送の響きを彷彿させてくれて、何とも沁みてきた。

 僕の娘よりも五歳上になる夏苗(若井なおみ)がうみに言っていたように「おいそれとは立ち入れない、立ち入らせることのできない」胸の内は、僕などの想像の及ぶところではないけれども、九年前の東北には『父と暮せば』の美津江のように「生き残った者の心が囚われる、自分が生き延びていることへの“申し訳なさ”や“いたたまれなさ”といった、心の傷」を抱えた人々がたくさんいたであろうことは、とてもよく伝わってきた。ヒロシマとトウホクという場所にも時代にも違いはあれど、同じように幽霊というか人の心の内にある大切な亡き人が現れ出てくる、もうひとつの『父と暮せば』とも言えるような作品だった気がする。




参照:『父と暮せば』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2004j/22.htm





  ヤマ

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2020年07月18日

文学座公演『大空の虹を見ると 私の心は躍る』








'20. 7. 8. 文学座公演『大空の虹を見ると 私の心は躍る』(高知市民劇場第345回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 本作の舞台、新星劇場のラストショーでの最終上映作だった『草原の輝き』['61]を、『ウエスト・サイド物語』['61]との二本立てで三十八年前に観せてもらったのは、今はなき高知名画座だ。そこのラストショープログラムは、『モーリス』['87]と『眺めのいい部屋』['86]だったようだが、僕は、最後の日には駆け付けていない。手元の記録に残っている '80.4月から'89年1月までに観た作品は、152本しかないけれども、僕にとっては、ひときわ思い出深い映画館だ。僕が高知映画鑑賞会の自主上映活動に携わる契機になった例会作品『皆殺しの天使』['62]の上映会場も、高知名画座だった。


 芝居のなかで、“どこにも行き場のなくなった人が赴く場所”のように言われていた映画館にしょっちゅう入り浸っている僕は、この台詞に苦笑せざるを得なかったのだが、映画館がそういう人たちの息の継げる場所であることを自認しながら、いじめに遭っていた我が子の苦境に気づかず事もあろうに映画館から学校へと追いやり、中学生で自死させてしまった苦衷を抱える映画館主(鵜澤秀行)の人物像に感じ入るものがあった。


 長男の映一(柳橋朋典)が高校時分からゲイであることに気づきつつ、どう対処していいか判らないから狼狽はしても息子に気づかれないよう見守るだけで、動転したり激したりはしなかったことが、映画を通じてヴィスコンティやパゾリーニ、ツァイミンリャンなどによって見知っていたからだと告げた場面で、気づきながらスルーしたことを息子から咎められていた姿が印象深かった。登場人物の誰もが屈託を抱えて生きていたが、僕の眼には、映画館主がいちばんのように感じられた。その彼が「大空の虹を見ると 私の心は躍る」とワーズワースの詩を叫ぶ物語だ。


 キャラクターとして目を惹いたのは、映一より十歳年嵩の同棲相手の太一(木津誠之)だったが、物語上の配置として目を惹いたのは、『ホテル・ニューハンプシャー』['84]でスージー・ザ・ベアを演じていたナスターシャ・キンスキーの名を出してその登場に了解感を与えていた映写技師の大野(山森大輔)と、ゲイカップルや歳の差カップルに「(普通じゃない!)問題だわ〜」と突っ込む女性従業員(頼経明子)の存在だった。


 前者は、熊ならぬウサギの着ぐるみを脱ぐことができず寡黙に生きるという特異な生き方を故あって余儀なくされている男だが、彼にとって、その生き方を受容してくれる映画館主の存在が必要だったと同時に、受容しつつも彼に「脱げ!」と言ってくれた中年女性の須美江(名越志保)がいてこそ果たせた脱皮だったことが印象深かった。熊の着ぐるみで暮らしていたスージーの心の傷はレイプだったが、ウサギの着ぐるみを脱ぐことのできない大野が、人には晒せない心の傷を深く抱えていることを察知すればこそ、そして、それが亡くした息子に関係している可能性を感じていればこそ、映画館主は、大野を見過ごすことが出来なかったのだろう。新星劇場で映画を観たことのない須美江を老母の介護の骨休めに、心安くロビーで寛がせる映画館主なれば、尚のことだ。


 なぜ知っていて雇ったかと映一は非難していたが、映画館主にしてみれば、自分は着ぐるみこそ着ていないけれども、事件以来、殻を被って生きるほかなくなっていることを痛感していただろうから、スージー・ザ・ベアさながらの姿で現れた大野の胸中が身に沁みたに違いない。そういう意味では、息子に死なれる前の自分には二度と戻れないことが痛いほど判っているからこそ、換言すれば、子供の頃のように虹を見て心を躍らせることが叶わなくなっているからこそ、大人になっても虹を見て心躍らせたいと願わずにいられないのだ。映画館主がワーズワースの詩を叫ぶのは、そういうことであって、ただ彼の詩が好きなだけではなかったに違いない。大野の傷ついた心を守るために着ぐるみが必要だったのと同様に、映画館主の心を保つために必要だったものが大空の虹なのだと思う。


 後者については、普通じゃないことを指摘する彼女自身が体型のみならず極めて個性的であることによって、世の中にはマイノリティを紛れなく指弾できるようなマジョリティなるものを体現している存在などなく、誰もがそれぞれ何らかの部分でマジョリティとはならない“個性”を備えているのが人間であることを示していたような気がする。僕自身を振り返っても、例えば、還暦を過ぎる今までのところ異性愛者であることは、マイノリティの側ではないのだろうが、ケータイ・スマホの非保持者であることは、今やマイノリティの側であるに違いない。そういったことに留まらず、マイノリティとマジョリティということについて、思うところの多かったであろう作り手ならではの登場人物たちの造形だと思った。


 そして、事件が起きたときは過剰に注目しながらも、その後については頓着しない人々の関心といったことも、事件関係者というマイノリティと、世間やメディアといったマジョリティとされる側との対比で捉えている視線が窺われるとともに、先ごろ観たばかりの映画『家族を想うとき』['19]の原題「Sorry We Missed You」を想起させられた。だが、それだけシリアスな題材だけに、そこに落ち込まないよう苦心惨憺している部分が、人によっては違和感に繋がる面があるかもしれないとも思った。


 昭和二十一年創業という新星劇場の待合に貼られていた映画ポスター『エデンの東』『サウンドオブミュージック』の隣の作品が気になり、終演後、ステージ前まで近寄り確かめたら、『芽ばえ』['57]だった。これは未見作品なのだが、並ぶ二本の映画と同列にある作品のようには思えない。どういうところからの選定だったのだろう。また、僕の席からは全く識別できなかった壁に貼り付けた映画のチラシも目を惹いたが、新型コロナウィルス禍の折りバックステージツァーなどあるわけもなく、残念至極だった。











  ヤマ

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2020年07月10日

【8/8スタート!】\今年はおうちで!/としまアート夏まつり2020

としまアート夏まつり2020


豊島区内でさまざまなジャンルのアーティストや作品との出会いをお届けする「としまアート夏まつり」。14年目の今年は、おうちで安心して参加できるオンラインプログラムを実施する特別バージョンとして開催します。赤ちゃんからおとなまで、アーティストと一緒にアートな夏を過ごしましょう。


|日程|8月8日(土)〜9月30日(水)

|場所|オンライン

|公式サイト|https://toshima-saf.jp/


|プログラム|

1.【8/8〜8/31】子どもに見せたい舞台vol.14おどる絵本『じごくのそうべえ』

2.【8/10】親子で楽しむ ぷちライブ!「武徹太郎の音楽紙芝居・夏休み編」

3.【8/11〜】育てる展示「おばけのパレード〜真夏のにぎやかな百鬼夜行〜」

4.【8/15】アーティストとあそぼう!「Zoomでからだ遊び」

5.【8/28〜30】観る!作る!短編アニメーションの世界「アニメーション・トラベル!」

※5.「アニメーション・トラベル!」では、みなさんから絵を募集してアニメーションをつくります!ぜひ参加してくださいね。【7/9〜8/9】


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1.【8/8〜8/31】子どもに見せたい舞台vol.14おどる絵本『じごくのそうべえ』

30年にわたるベストセラー落語絵本を舞台映像化。そうべえと一緒にじごくを面白おかしく探検しよう!今年はにぎやかでパワフルな舞台の配信用スペシャルバージョン。

監督:スズキ拓朗・青山健一

演出・振付:スズキ拓朗


2.【8/10】親子で楽しむ ぷちライブ!「武徹太郎の音楽紙芝居・夏休み編」

うたう、かなでる、ココロがおどる。あざやかな絵と音楽が奏でるいつかどこかのお話。武徹太郎による絵と音で描く紙芝居、即興の絵描き歌や自作楽器が登場します!

アーティスト:武徹太郎(音楽家・美術家)


3.【8/11〜】育てる展示「おばけのパレード〜真夏のにぎやかな百鬼夜行〜」

子どもたちから公募した「おばけの絵」を実写アニメーションにします。おそろしい鬼や妖怪がたくさんのパレード「百鬼夜行」。どんなおばけが登場するかはお楽しみ。

アニメーション:有限会社ヒゲプロ


4.【8/15】アーティストとあそぼう!「Zoomでからだ遊び」

からだをめいっぱい使って遊びます!トンネルをつくったり、目と目を合わせて動いたり…自分を感じて、相手を感じて、楽しみましょう!

アーティスト:楠原竜也(演出振付家・ダンサー・ファシリテーター・ダンス研究者)


5.【8/28〜30】観る!作る!短編アニメーションの世界「アニメーション・トラベル!」

短編アニメーションの世界を、作家と一緒にのぞいてみよう!多彩な作品上映とゲストトークを実施。オープニングを飾るアニメーションでは、みなさんからイラストを募集中!【7/9〜8/9】

ナビゲーター:水江未来(アニメーション作家)

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|お問合せ|

NPO法人アートネットワーク・ジャパン

info@toshima-saf.jp

TEL 03-5961-5200(平日11:30-15:30)


|主催|

としま文化創造プロジェクト実行委員会 (豊島区、豊島区教育委員会、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、NPO法人芸術家と子どもたち、公益財団法人としま未来文化財団)


|助成|

令和2年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業


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2020年06月21日

'20. 6.21.  柳家喬太郎独演会








柳家喬太郎独演会


会場:県民文化ホール・オレンジ


 柳家やなぎ:そば清


 柳家喬太郎:紙入れ


−中入り−


 林家二楽:紙切り


 柳家喬太郎:ちりとてちん


 どんな噺をするのか事前に示されていなかったから、やなぎが蕎麦を啜るそば清の形態模写を繰り返した際に「普通はここで拍手が…」と零して笑いを取りつつ促したのが、喬太郎の中入り後の演目ちりとてちんでの強烈な臭いに目を白黒させながら、喰わなきゃでも喰えない…ええい!というのを形態模写する師匠の噺への前振りだったとはそのときは気づかなかったが、噺を最初から決めているわけでもないらしいから、たまたまということなのかもしれない。


 さすが当代きっての人気噺家だけあって、枕もネタも滅法おもしろかった。帰宅後、ついつい「ガチャガチャの妄想おねえさんの寿司屋」を画像検索してしまった。まったくオカシナものが流通しているものだと半ば感心した。


 ただコロナ禍のせいで指定席を前後左右1席空ける千鳥模様に組み替えたとのことで、入場に際して整理券との交換を求められ、16列目だった僕と妻は、2階の2列目(たぶん32列目に相当するのだろう)に繰り下げられたために、喬太郎の顔芸がほとんど識別できないという憂き目に。


 おまけに、スタンディングのライブスポットと違って、観客側が騒ぎ立てることなどないうえに一方向を向いた着席に対して、マスクは義務だ、いったん席に着いたらなるべく離席するな、会話は控えろと連呼され、甚だ気分を害した。マスクは飛沫感染防止のためのものとの合理性が失われ、着用自体が目的化している蒙昧こそが、本当に必要な施設や医療機関における資材欠如を引き起こしたと見ている僕には、劇場でのTPO無用の一律マスク着用圧力は、愚の骨頂にしか思えない。










  ヤマ

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2020年03月17日

こまつ座 第130回公演『イヌの仇討』








'20. 3.15.


 こまつ座 第130回公演『イヌの仇討』(高知市民劇場第342回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール


 新型コロナウィルス禍のもと各地のライブ公演が中止されているなか、果敢な公演決行だったが、入場に際して手指のアルコール消毒を求め、セルフもぎりで配布物の手渡しもしない取り置きに加えて、マスク未着用者には用意したマスクを配布して装着を求めるという最大限の措置を取ってまで行っただけのことはある、実に時宜に適った舞台だと思った。三十一年前の第158回例会で観たときよりも身につまされるものがあるように感じられた。


 オトモダチならぬ母親の意を汲むことと世間の風評を気にしながら行き当たりばったりのその場しのぎの裁定によって、赤穂藩と高家を翻弄した時の政権たる綱吉の治世。当初は浅野内匠頭の狼藉を謗りながら、義士による仇討圧力に同調し、徒に吉良上野介義央を敵役に仕立て上げた民衆の愚かさ。その二つこそが招いた“猿芝居ならぬイヌの仇討”だったとの物語は、三十一年前に観たときも、流布されている討ち入り話よりも遥かに理が立ち、筋が通っていると感心したものだったが、特に近年、世界中で目立ってきているポピュリズム政策に傾く政権の惨状を見事に衝いているように感じた。


 ポピュリズム政策のタチが悪いところは、まっとうな責任感覚を備えている者なら発しない無責任で偏ったメッセージのほうが政権に届きがちであることだ。本作でも、庶民の代弁者たる砥石小僧新助(原口健太郎)が赤穂浪士及び高家の人々の誰一人の真実を知らないまま、無責任に仇討ち決行の有る無しをネタにした賭けに自身も加わっていたことの非を詫びる場面があったが、当時それが流行していたとしても、庶民の過半数を占めるマジョリティとして参加していたはずはないわけで、盗っ人新助の反省の弁や吉良家御女中頭お三(西山水木)の指摘どおりの顰蹙を買っていた部分も必ずあったろうと思う。井上ひさしが本作を書いた'88年当時の日本の首相は、消費税導入を果たした“ほめ殺し”の竹下登だったが、時事的に特に思い当たることは浮かばなかった。


 それにしても、吉良上野介は実は卑怯者でも嫌味な強欲でもなく、剣術の腕前も確かな白髪の品のいい老人だったとする井上の解釈が、浅薄な逆転による内蔵助を敵役に替える物語になっていないところが流石だと改めて思った。そして、不確かな伝聞ではなく、自分で資料に当たったり、きちんと出典(発信元)を確認することでこそ得られるリテラシーの重要性を問わず語りに訴えている部分が、今やインフォデミックなどという言葉が流布されるに至っている情報過多拡散社会にあって、意義深さを増しているところに大いに感心した。資料漁りの虫だったらしい井上ひさしが吉良上野介義央について調べたであろう事々がたっぷり詰まっていたように思う。


 例会カレンダーの出演者に三田和代と記されていたのは、お三の役だと思われるが、替わって西山水木が演じていた三は、凛としていてなかなか良かったように思う。義央(大谷亮介)の命をこそ惜しむ吟(彩吹真央)と名を惜しむ三の競り合いと和解が対照しつつ浮かび上がらせていたものに納得感があって、作品に厚みをもたらしているように感じた。名を残した内蔵助と、名を損ねた義央にあって、作中で義央が、内蔵助の美化された“昼行燈”逸話に正論とも言うべき異議申し立てをしつつ、今般の仇討に至る彼の真意を看破し、天晴れと加担を覚悟するくだりは圧巻だった。


 先ごろ全国一律一斉休校要請を首相が発したときに友人のフェイスブックに「感染防止効果という点で実に覚束ないというか、まさにダイヤモンド・プリンセス号でやった中途半端なゾーニングのような「ろくに効果なく乗客に難儀をかけただけ」みたいな対応策にしか見えない。影響の大きさからして、やらないよりマシみたいな感覚で「要請」すべき事柄ではないのは、いま生じている混乱を見るまでもなく、一目瞭然じゃないのか。 なんか感染自体よりも恐ろしい事態が起こっているような気がするわけよ。新聞報道によれば、今井補佐官の進言で首相が荻生田文科大臣の抵抗を押し切って唐突な発表を行ったらしい。また、基本方針を検討しているメンバーからはその報を見て、基本方針検討会でも聞いていなかった事態への説明を求めたいとの書き込みもあったらしいし、なんかもう政策決定が滅茶苦茶になっている気がする。コロナよりもタチの悪そうなアベ・ウィルスじゃん、これじゃって感じ。 なんだか生類憐みの令を発した綱吉と側用人柳沢吉保を想像させずにおかない令和の大発令のような気がしたよ(とほ)。」などと書き込んだときには、特に本作を意識してはいなかったのだが、その思わぬ符合が哀しくも可笑しかった。









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2020年03月13日

劇団彩鬼第12回公演 『蟲ヶ蠢(むしのね)』








'20. 2.23. 劇団彩鬼第12回公演 『蟲ヶ蠢(むしのね)』


会場:蛸蔵





 オープニングの雨のなかの惨劇場面に対してセリフや声を赤い字幕にし、雨音と青い光で見せたことが効いて音と光による想像力を刺激してくれたことが、花火の場面にもうまく作用していたところに感心した。


 今回の台本【吉村領】は、人の営みに関する捉え方に深みがあってなかなか良かったのだが、この彩鬼の真骨頂も言うべき“イマジネーションの刺激”が、さまざまな言葉や事象における両義性や多義性というものに関しても大いに刺激を与える形で、台本の良さをうまく引き出すことに作用していたように思う。


 まさにタイトルに記された「蟲」の文字が視覚的に示しているように、たくさんの寄生虫イメージが多義的に提示されるうえに、「報い」とすると負のイメージをもたらす言葉が「報われる」となると良いイメージを付与されるような両義性についても、深みのあるイメージをもたらしていた気がする。


 チラシに記された「心のきず。絆のほころび。欲のかけら。情のきれつ。」といった人の弱さに憑りつくという“虫”の巣食いを見抜き、虫に憑かれた者を成敗することの意味するところは何なのだろう。八岐大蛇を退治して得られたとする虫斬刀は、正義の太刀だとしても、その行使が生むのは悲劇でしかないのではないか。赦されないのは、虫斬刀の行使なのか、その抜刀を使命として負うことからの逃避なのか。


 作り手が、虫斬刀にどういう始末をつけるか大いに迷い悩んだ形跡が窺えたところに真摯さの感じられる作りになっていた点がとても好もしかった。僕的には、虫斬刀を捨てさせる結末になっていても、背負う覚悟をする結末になっていても、結論的にはどちらでも構わない。どちらにしても何らの迷いもなかったりすると気に入らないが、そうはなっていなかったところを支持したいと思った。千屋蓮華が溌溂と演じた逢八虹(あやめ)という、殺められようのない定めの少女が和正(行吉忠義)に放った「赦さない!」との言葉が深く痛烈だったからだ。八岐大蛇の精を継ぎ、八つの虹に逢う定めの少女が観るこれからの世界で、和正はどう生きなければならないのか、なかなか余韻のあるエンディングだったと思う。


 妖刀村正のごとき切れ味を備え、ライトセーバーのごとく柄の部分しか見えない虫斬刀が目を惹いた。人の目には見えない蟲ヶ蠢を嗅ぎ付ける“映らずの刃”との設定なればこそ、殺陣場面でも役者が小道具に惑わされることなく存分に動ける一方で、下手すると“映らずの刃”の存在が観客に伝わらなくて失笑を買いかねない。その点では、凛々しく雫を演じた浜田真緒も行正もなかなかよくやっていて流石だった。


 龍笛【寿延】、ギター【北川昌平】、キーボード【さみー】の奏でる音楽も物語を効果的に運んでいて上々だったように思う。前田澄子の遺作として今や名作との印象を残している『鬼被威−おにかむい−』に迫る出来栄えのように感じたのだが、観劇後、語り・演出の鍋島恵那から聞いた話では、僕の観た回の公演はいろいろアクシデントが起こっていて、舞台裏では冷や汗をかいていたのだそうだ。僕自身は、特に違和感を感じていなかったので、舞台側の事情に気づかなかったのは、僕の注意力が落ちていたということかもしれない。









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2020年02月09日

'20. 2. 2. 田上パル vol.18 『Q学』








'20. 2. 2. 田上パル vol.18 『Q学』


会場:高知市文化プラザかるぽーと小ホール





 観終えて作品タイトルの意味が、休学でも究学でもなくてまるでピンと来なかったのが残念だったけれども、一線に並んだ女子高生たちの手拍子と共に繰り返される「演劇!」の声で始まり終わった芝居を観ながら、“演劇”なるものを信じ称える作り手の想いが伝わってきたように感じられて、何だかえらく心打たれた。


 既に還暦も過ぎ、もう何十年来と聴き馴染んでいる♪あの素晴らしい愛をもう一度♪をかように感慨深く聴いたのは、初めてのように思った。舞台となったとある高校の表現選択科目「演劇」の授業の発表演目として取り上げられた太宰の『走れメロス』にまつわる速度ネタは、何年か前に中学生が取り上げて話題になったことに端を発したものだった覚えがあるが、メロスの走りが♪命〜懸けてと〜誓った♪ものだったか否かはともかく、軍曹と仇名された坂口(とみやまあゆみ)が来ることを願って走り続ける級友たちの姿が面白く、遅れに遅れて到着した坂口に浴びせかけられる張り扇の嵐が、十代の特権のように感じられて眩しかった。


 田上豊の作品を観るのは、二年前に観た『報われません、勝つまでは 土佐弁ver.』の現役高校生版・かつて高校生だった者たち版公演<http://arts-calendar.sblo.jp/article/182881544.html >以来なのだが、高校生たちの活き活きとしたエネルギーを見事に掬い取っていて実に好もしかった。会場で配布されたリーフレットによれば、本作は、作者の田上が二十代の中盤に実際に高校で非常勤講師の仕事をしていて体験したことがベースになっているそうだ。それゆえの力だったかと得心がいった。


 また、公演に引き続き披露された公開ワークショップも、演劇なるものの力と妙味を愉しく深く伝えていて、とても興味深いものだった。なかなかいい企画だったように思う。








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'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』








'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』


会場:蛸蔵





 大阪を中心に活動している階ユニットが地元の蛸蔵と組んで企画・制作した作品だそうだ。舞台となった「ここに来る人は誰もが遠くから」という偽物の灯台のある公園が何を意味しているのかを思うとき、目に留まったのが、舞台下手の案内板と「腕章の男」(七井悠)の腕章に記されていた「(蛸)公園倫理委員会」だった。普通は「(財or社)〇〇公園管理協会」といった名称なのだが、“管理”ではなく“倫理”となっていたことが目を惹いた。もしかすると「公園」には「公演」を掛けた意味合いがあって、ここに言う公園とは、公演を行う場所すなわち蛸蔵のような劇場のことをシンボライズしているのではないかという気がした。となれば「遠く」とは、日常性を指すのかもしれない。


 そして、公園を公演と読み替えたうえでの偽物・本物、報告書の名の下に記されるべきもの、記し得るもの得ないもの、続けること、穴があくことの意味、あいた穴の持つ意味など、提起された様々な言葉が触発してくれるものはいろいろあったのだが、いずれも意味深長で非常に大事なことでありながら、作り手の想いに触れたように感じられる部分が乏しく、妙に総花的な羅列のような感じのしたところが物足りなかった。もとより“倫理”の名の下に明言できる質のものではないから、そのようなことを望んでいるわけではないが、いろいろ出してみて、とにかく語り続けることなんだと、わぁ〜っと最後、歌と音楽で煙に巻かれた感じの仕舞い方が気に沿わなかったのかもしれない。これでもって、チラシに記された惹句「語り得ぬものについて沈黙しないために。」と言われてもなぁという想いが湧いた。


 タイトルにフーガとしたうえで「行き止まり」を持ってきて、舞台上に設えられた案内板に図示までしてあったことからは、公演の倫理ということについては、単に演劇公演だけではなく、広く芸術表現にフーガ的に現れるものとしての意図があったように感じられ、直近の「あいちトリエンナーレ」のなかの「表現の不自由展・その後」を想起させる部分や時事ネタ的には旬の極みとも言うべき「シュレッダー」への言及もあってアクチュアリティに富んでいたように思う。それだけに余計に、作り手の想いに触れたように感じられる部分の乏しかったことに不満を覚えたのだろう。


 なんだかX JAPAN のYOSHIKIのイメージを模したような「招かれたので来た男」を演じた佐々木峻一が妙に可笑しくて面白かったが、去年の「World Music Night vol.28 “さえずりな夜&高知カリビアン・ハーツ”」に出向いたときに強い個性を感じさせて印象深かった山村誠一が、芝居で「唄うたい」を演じるとしっくりこない感じが強くて、やはり演劇の人ではないのだなと感じた。それゆえか否か最初と最後に舞台に上がるというか降りてきて演じただけで、途中はずっと雛壇と言うか、殿上人のような位置に祭り上げられていたのが妙に苦肉の策のようにも映ってきた。タネマキカクでの『…』で見覚えのある柴千優【赤い靴の女】は、口調に癖のある部分が魅力的な個性になっているように感じた。荒木晶成の演じていた「灯台守をしていた男」は最も重要な人物だったように思うのだが、その造形が不足していて演じるのが難しい人物になっていた気がする。彼が最初に「赤い靴の女」に指し示す“穴”にまつわる遣り取りがもう少し書き込まれているべきではないかという気がした。








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'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)








'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 終演後の舞台挨拶で市民劇場の仕組みを“世界に類のない観劇システム”として高く評価していた加藤健一は、テレビどころか映画すら遠ざけて、“生舞台”にこだわり地方に持って出るうえで、衰えてきている市民劇場の資金力を考慮して負担金を抑えるべく製作費を切り詰めているような気がした。


 例会作品としては四年前になる前作『Be My Baby いとしのベイビー』(http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/16/3-21.html)と同じ二人芝居だったわけだが、前作を観たときには思わなかったことを感じたのは、やはり馬琴の妻の百(高畑淳子)と息子の宗伯(風間杜夫)を声のみでの出演にしていたからだろう。2011年の初演時からそうだったようだから、東京公演と地方公演で異なる構成にしたのではなく、元々の造りをそうしていたわけだ。地方都市での生舞台にこだわる加藤健一が東京と地方とで異なる構成にして持って出る本末転倒をするはずもなく、元から旅公演を想定した作品製作をしているに違いない。


 だが、本作については、滝沢馬琴(加藤健一)と宗伯の妻お路(加藤忍)との絡みだけではなく、馬琴とお百、お路と百、宗伯と馬琴、宗伯とお路の絡みも目の当たりにしたい恨みが残り、声だけでの出演が物足りなく思えて仕方がなかった。せめて奥の部屋や廊下のほうから聞こえてくる声のように感じられる音響処理をしていればまだしも、あからさまに役者の不在のみを印象づける中空からの声出しだったから、余計にそのように感じたのかもしれない。


 その一方で、舞台装置はしっかり作ってあって、重要な屋根の上の場面は星空ともども実に美しく、舞台を貧相に見せることがついぞなくて流石だと思った。とりわけ梯子を上ることもなく何処から姿を現わしたかと思わせた路と馬琴の屋根の上での場面の処理が鮮やかで、幻と生身の対照がストンと入ってくるタイミングでの素早い移動ともども御見事であった。


 それにしても、かほどの“内乱”に四六時中心を乱され、息つける居場所が夜の屋根の上しかないというような状況のなかで二十八年間に渡って『南総里見八犬伝』を書き続け、ある意味『源氏物語』以上に親しまれる稀代の小説を成し遂げた馬琴の凄さに恐れ入った。晩年は口述筆記に頼ったことは知っていたが、その役割を担ったのが亡き息子の嫁で、しかも読み書きが得手ではなかった女性であることは初めて知った。機関紙の解説に実際に路が口述筆記した遺稿の写真を掲載して、極短期間に口述筆記が上達した様子を見せてくれていたが、日々の仔細を丹念に日記に残していたらしい馬琴の日記に、馬琴が屋根の上で見た幻の場面を偲ばせるような記述は果たしてあったのだろうか。


 妻が亡くなった際の「これで内乱が終わった」との馬琴の台詞の“内乱”の使い方が、本作に描かれた家庭の事情の様子からは少々似つかわしくない気がしたので、実際の日記にあった言葉のように感じた。おそらくは着想の大半を馬琴日記に負っていると思しき本作における、馬琴の秘めたる路への想いの記述があったのか、かほどの“内乱”のなか馬琴に書き続けるエネルギーを与えたミューズとして、作者の吉永仁郎が造形したものなのか、路の実に進歩的で主体的な女性像に窺える現代性とともに、気になるところだった。その稀代の大小説をものした作家のミューズに足る魅力を加藤忍がいかんなく発揮していたように思う。








  ヤマ

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2019年12月08日

劇団文化座 公演『銀の滴 降る降る まわりに―首里1945―』(高知市民劇場第341回例会)








'19.11.26. 劇団文化座 公演『銀の滴 降る降る まわりに―首里1945―』(高知市民劇場第341回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 何の予備知識もなく観たものだから、開始早々に「上からは同等に扱えと言われている」とのなかで、雑役を押しつけられてばかりいる炊事兵の冨田一等兵(皆川和彦)が登場した際に、ありがちな朝鮮人日本兵という設定に違いないと思ったら、アイヌ人との設定で大いに意表を衝かれた。そういったことのみならず、隅々までありがちな軍隊ものとは一線を画していて、悪役もヒロイックな人物も誰一人いない人物造形に感心するとともに、“不完全なる人間”の愚かさや至らなさと共にある健気さが、とても誠実に描かれていて、心打たれた。


 沖縄戦を舞台にした芝居のタイトルがよもやアイヌ語だったとは、本当に思い掛けなかったのだが、そのことが明かされた一幕の終わりに、だから如何にも南国沖縄を思わせる木々の設えではなかったのだなと得心がいった。アイヌの神の使いだとの梟の似合う樹は、やはり椰子のようなものであってはならないわけだが、満州の極寒の地から移送されてきて暑さに閉口している場面から始まる本作の舞台装置がちっとも沖縄っぽくみえないことを不審に思った謎が解けた。


 そして、“金の滴”ではなく“銀の滴”のほうをタイトルにしているのは、現地徴用されて炊事班に配属された中里幸吉(春稀貴裕)が冨田に告げた「一度も見たことのない“雪”を見てみたい」との台詞からくるのだということが判ってくるとともに、終盤で与那城イト(佐々木愛)が冨田に捨てるよう諭した「武器」との対照としての「母語」の提示にこそ深意があることが伝わってきて、強い感銘を受けた。


 武器がもたらすものは死と破壊でしかなく、軍隊が守れるものなど何もなかった一方で、ウチナーグチを守ってきた沖縄の民衆を讃える意味でのアイヌ語であり、沖縄人に感銘を受けた冨田の呟きだったわけだ。そして、そのウチナーグチでもって繰り返し運玉森のギルーの心を説くおばぁイトの体現していたものこそが真の“守り”ということなのだろう。さすが文化座作品らしい魂の入ったよく練られた舞台だと思うとともに、自分たちで上映しながら観る機会を逸したままになっている高嶺剛監督の『ウンタマギルー』['89]を観てみたいとの想いが強くなった。


 思えば、いかにも士官学校出の秀才を感じさせた小野寺小隊長(米山実)の保っていた冷静さと誠実さに心許すなかで、絶望的な戦況に「兵士ではない民は速やかに米軍の捕虜となって戦後復興に努めてほしい」と説かれても、「それが正しくても、それは頭のなかの戦争であって米軍に息子を殺された儂らは、腹の立つことばかりされてもやっぱり日本軍を頼りにしてるんだ」と訴えて小野寺を項垂れさせていた与那城区長(阿部勉)が、日本軍への不信と憤りを露わにした契機は、高山軍曹(藤原章寛)が区長たちにウチナーグチを禁じ、これからは標準語で話さないとスパイと見做して処刑すると迫ったときだった。アイヌの謡から採ったタイトルの“銀の滴”とは、与那城区長たちにとってのウチナーグチすなわち「母語」ということなのだろう。最後に彼が「日本語の次にこれからは英語も覚えなければいけないのか…」と呟く姿が心に残った。


 戦場を生き抜く力に長けた高山軍曹から“使えない隊長”と小馬鹿にされていた小野寺小隊長という二人には、『プラトーン』['86]のエリアスとバーンズに投影されていた理念と現実の対照にも通じるものが窺えたけれども、その点では『プラトーン』には及ばない。だが、そこが本作の主題ではなくて、対照していたものという点では、やはり武器と母語に違いなく、そのことを明示するうえでの作品タイトルなのだろうと思った。


 最後、中里から預かった竹とんぼを米軍戦車を前にして放ったとき、機銃掃射の音はなく、キャタピラの音が再びし始めたところで止まった。機銃の音は、その後、あったのか、なかったのか。敢えて音を止めた部分は観る側に預けられたわけだが、僕としては、小野寺小隊長が与那城区長に説いて断られ項垂れたものを、奇しくも富田が結果的にその遺志を継ぐ形になって叶えたと思いたいところだ。








  ヤマ

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2019年11月25日

水俣・ひとり芝居「天の魚」








'19.11.22.   水俣・ひとり芝居「天の魚」


会場:蛸蔵  





 三世代で水俣病に見舞われた江津野家を訪ねて来た「あねさん」と呼ばれる訪問客に、問わず語りに来し方をつまびらかにしていた江津野老(川島宏知)が、しきりと見せていた空笑いに潜む遣る瀬なさが何とも痛ましくも悲しくて、あねさんに語っているとも胎児性水俣病患者の9歳の孫杢太郎に語っているとも知れない「わしらの舌は殿さん舌でござす」との台詞が耳に残った。


 時代設定の東京五輪の歳1964年には、メチル水銀を含んだ廃水による魚介類汚染が原因だとの情報は既に当事者たちにも届いていたように思うから、なおのこと、せわしくて新鮮な刺身にもありつけない都会暮らしにはない至福が水俣の海にはあるとの江津野老の言葉が哀しく響くのだろう。胎児性水俣病患者の孫のみならず漁師の息子も、腕に激しい震えの発作がくる自分自身も揃って水俣病患者で、どこにも行き場がなく、その海で暮らすほかないのだ。


 高校時分に観た『サンダカン八番娼館 望郷』['74]で知った覚えのある「からゆきさん」にまつわる話は、川島宏知の師に当たる砂田明が本作を創り、'79年から全国行脚公演を始めた時分には意義も意味もあったように思うが、今となれば、少々焦点がぼやける方向に作用しているようにも感じた。


 砂田亡きあと、川島が再演を始めたのは'06年とのことで、十三年前になるわけだ。宿毛市出身の彼が願っていたとの高知市公演がようやく叶ったと話していたが、奇しくも、水俣病患者らが初めて裁判で補償を求めたという'69年からちょうど半世紀経った歳に叶ったことになる。スタッフを含めて、ライフワークというものを得ている人々の生の強さというものが端々に感じられるような公演だったことが、とても印象深かった。








  ヤマ

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2019年11月16日

からくり劇場公演No.4『ザ・空気』








'19.11.15.   からくり劇場公演No.4『ザ・空気』


会場:蛸蔵  


 さすが永井愛の作品だと感じ入りながら、では、どうすればいいのだろうと些か苦しくなった。二年前の作品だというから、本作で「この二年間ですっかり変っちゃいました」との台詞があった二年が、いま経っているわけだ。それで言えば、まだ憲法の改定はされていないが、報道現場における空気は、自殺した桜木や未遂になった今森俊一(谷山圭一郎)編集長のように憤り抗う者が組織のなかにはいなくなってしまい、鬩ぎ合いのなくなったものになっているのではないかという気がした。


 本作の毎朝テレビに限らず、報道マスメディア組織のトップが政権トップと会食を重ねる状況で、そうそう“面従腹背”を貫ける人物がいるはずもなく、経営責任の名の下に組織防衛に重ねた保身を図る状況下にあれば、現場において、本作に描かれたような状況が日常的に重ねられたであろうから、その二年の積み重ねは、決して侮れない気がする。


 来宮楠子(小野純子)キャスターが経営責任の一角を担う役員に転じていたりする姿は決して彼女に限られたものではないはずで、丹下百代(別役和美)ディレクターが辞め、残ることができているのは、本意か不本意か無頓着かは不明ながら、ネトウヨ的勢力に加担するに至っている花田路也(木村塁)エディターと、“空気読みの達人”とも言うべき“中立”論者の大雲要人(刈谷隆介)アンカーだけだった。


 そうなってしまうのも仕方ないかもしれないと思われるストレスフルな状況がひしひしと伝わってくる芝居になっていたように思う。ついついマスメディアに対する憤慨に見舞われることの多い昨今だけれども、これだけのストレスに日々晒されることに持ちこたえられる人のほうが少なかろうと思えて仕方がなかった。現場に決定権が保障されていない問題の根はとても深い。


 情けなくてしようがないのは、現場にこれだけの苦渋を飲ませる「ザ・空気」を醸成している側には、きっと“弾圧”や“検閲”などといった大それたことをしているような自覚がなく、単に選挙に勝ちたいためだけの範囲のことでしか考えていないように思えて仕方のないところだ。現政権が、選挙目的・政権維持のためだけにしていることに過ぎないと思っているであろうことによって、その現場にいる人々の良心をどれだけ破壊し、彼らが帰属し構成している組織の社会的装置としての機能を損なっているかを思うと、本当にやり切れなくなってくる。官庁にしても、教育界にしても、法曹界にしても、現場の受けているダメージは測り知れない。


 麻生太郎が首相となって後に下野してから、対立軸を打ち出すためと称して極端に国家主義的色彩を帯びると共に、「貧格」と言うほかない壊れ方を晒してかつての自民党とは全く異なる政党となりながら、なお昔の名前で出る欺瞞を重ねていることが我慢ならない気がしてくる。


 映画『主戦場』で仄めかされていた、政権がネトウヨや日本会議に資金提供して政権批判勢力にバッシングを加えているという構図が仮に事実だとすれば、アメリカがかつてカネも人も出して育てあげたアルカイダに手どころか心臓部を噛まれたようなことが、日本国内で起こるのではないのかとの危惧さえ生じてくる。


 からくり劇場が前回取り上げた『歌わせたい男たち』(作:永井愛)も相当なものだったが、それ以上に深刻な作品だと思った。


































  ヤマ

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2019年11月03日

能×現代音楽×アート“Nopera 葵 AOI”








'19.11. 3. 能×現代音楽×アート“Nopera 葵 AOI”


会場:高知県立美術館能楽堂





 僕は能もオペラも、数える程しかライブ公演を観たことのない門外漢だし、Nopera はノペラであって、能でもオペラでもないと言われればそれまでなのだが、能の動きの象徴性を楽しむには様々な音の響きに気を逸らされるし、オペラを冠する作品にしては華美やスケール感からは程遠い、妙に焦点の定まらない散漫な舞台のように感じた。


 隣席が、プレトークのときから鼾を洩らしている女性と、本番中ずっと咳込んでいる女性のこうべった装いの二人連れで、大いに気が削がれて集中できなかったということもあるけれど、何よりも六条御息所の年増の怨念の凄みが伝わってこなかったのが残念だった。


 演者がとても若々しい女性(青木涼子)だったこともあって仕方がないのかもしれないが、衣装にしても音作りにしても、奇抜なことをすればいいというものではないよなぁとの想いが湧いた。当日配布のリーフレットに記されていた「…衣装はデコ電と往年のアイドル(「怨念のアイドル」を掛けた駄洒落w)の顔の刺繍が九つ入った布団。布団は葵上の病床、または六条御息所と光源氏の情事のアイテムから…」というようなノリが災いしているのかもしれない。


 音楽(作曲:馬場法子)の演奏自体は、なかなか興味深く、さまざまな音の響きが出てくるたびに、どの楽器を使っているのか、オケボックスと能舞台の双方を目が行き交った。なにせ能舞台には、張り渡された糸電話のみならず、見慣れぬ音出し装置が種々置いてあり、パーカッショニスト(池上英樹・畑中明香)が大活躍するのだ。そのうえで、チェロ(多井智紀)を始めとする弦楽器や、バスーン(中川日出鷹)を始めとする管楽器が、聞き慣れない響きを発し、密やかなコーラスまで行うのだから、そのぶん自ずと能舞台での動きを注視できなくなってしまった。


 奇抜さや物珍しささえあれば面白がれる向きには、能舞台という設えも含めて、確かに恰好のパフォーマンスだったのかもしれないが、僕にとっては、音楽と能がうまくコラボしているとは思えない舞台だった。あれだけ音楽が強くて、衣装があざといと、演出(佐藤美晴)は、さぞかし大変だったろうなぁ。









  ヤマ

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文学座 公演『再びこの地を踏まず』(高知市民劇場第340回例会)








'19. 9. 9. 文学座 公演『再びこの地を踏まず』(高知市民劇場第340回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 長らく連れ添うのはよいものだなぁとの感慨の湧くなかなか気持ちのいい芝居だった。還暦も過ぎた僕が子供の時分、学校の先生が勧める読書の最右翼が偉人伝で、なかでも野口英世とエジソンは不動の四番打者のような存在だった。だから、今さら「志を得ずんば、再び故国の地を踏まず」との決意を語られてもと思いつつ、マキノノゾミの作なら一味違うのではないかと思っていたら、偉人とされながらも実はという暴露物でもなければ、それでも彼はやはり偉かったと全面的に讃えるものでもなく、流石だと思った。


 我執の塊でもあった野口英世(今井朋彦)と違って立派なのは、やはり彼を育てあげた人たちで、世に知られた母シカは今さら多くは語られなかったが、「五分の真、二分の侠気、三分の茶目」との含蓄のある言葉を発していた恩師の血脇守之助(若松泰弘)や小学時分の同級生との八子弥寿平(鈴木弘秋)らがあっての英世であったことがよく伝えられていたように思う。


 だが、やはり最も印象深かったのは、妻のメリー・ロレッタ・ダージス(松岡依都美)で、語り手の奥住(佐川和正)が断っていた評伝として残っているものが殆どないという人物像を実に魅力的に造形していた根幹イメージは、作者が一度離婚しながら再び結婚した妻のキムラ緑子にあるのではないかという気がした。「行くのは英世の勝手、泣くのは私の勝手」との台詞に、何かニンマリとさせられた。


 それにしても、当代の“お偉いさん”には「五分の真、二分の侠気、三分の茶目」どころか、一分の真も侠気も茶目もないような気がして何とも情けなくなるとともに、五十路に差し掛かった英世が「人は成長するのだ」と述懐していた言葉に、十四年前に観た第146回市民映画会での『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』と『モーターサイクル・ダイアリーズ』の二本立て観賞の映画日誌に「それでも何となく、人は人から身を以て人生を学ぶべきであることを教えてもらったようなところがあるからこそ、受けた親切を預かりものだと考えているような気がする」と綴ったことを想起させてもらった。


 それとともに、野口が少々弱った身体で再び黄熱病の地を踏むことにした動機に、決して人類貢献のための報恩使命感だけではない野心として、自身の発表した黄熱病の病原体の発見論文に対する疑義が次々と出されていたことへの対抗心が潜んでいたことを怠りなく窺わせていたことに感心した。英世の弁のとおり、人は成長するものであるのと同時に、三つ子の魂百まででもあって、リセットするように更新されるものではない。使命感が五分だったのか、野心が五分だったのか、それが問題なのではなく、何か一つの動機で死の覚悟を要する出張を敢えて受けたのではないという姿にこそ“人間”野口としての真実があるのだと思う。


 愛妻か恐妻かはともかく、西アフリカの任地からの妻への恋文を夥しい数、残していたらしい野口が、親友の堀画伯(若松泰弘)に頼んで素敵な贈り物を用意して妻を喜ばせるのと同時に、信頼する助手兼秘書のエブリン(千田美智子)から電話があると、猫なで声に変わってしまう女好きも終生変わるところがなかったことを併せて描いているところに、妙に作者の拘りが感じられ、思わず笑みが零れた。








  ヤマ

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2019年10月07日

リーディング公演『赤の法廷 vol.1』








'19.10. 3. リーディング公演『赤の法廷 vol.1』


会場:REDスナック





 すれ違うこともままならないスナックのカウンターの内側に三人が並んで、「猿蟹合戦」に材を得た法廷劇をETVがやったものを援用する形で、裁判員に見立てた客に問い掛ける寸劇を観たのだが、思いのほか面白かった。


 TVと違って、検事・弁護人それぞれの最終弁論を聴いた後、予め用意された小さな紙片に猿への判決意見を記し、その集計を受けて判決を下すという趣向になっていた。


 死刑に賛成なら有罪、死刑に反対なら無罪と記して意見を添えるか否かは自由という投票ルールに対しては、死刑反対が一気に無罪か?との疑問が湧いたが、投票結果が「有罪7−無罪10−棄権2」となったことに驚いた。


 被告のサルは、事件当時8歳で学校に行っていてサルの青柿礫を免れた証人のカニの母蟹のみならず妹蟹まで殺していて、奪った命は一つではないながらも、8年間の逃亡生活の間に改心もし、家庭を設け今や子煩悩な一児の父となっている28歳の青年で、八つ当たり的な癇癪を若気の至りで起こしたことを反省し、毎月5万円を8年間送り続けてきているということが証言により明らかになっていた。


 16年前に観た『刑務所の中』の拙日誌に記した「死には死を」といった応報刑によって還って来る命はないのだから、そもそも死刑自体に懐疑的な僕は、償いとは、不断に悔い改めることにあると思っているので、紙片にはその旨記載した。加えて今回の設定では、サルは自ら定めた見舞金を毎月送り続けるばかりか、自らが家庭を持ったことで自分がカニの家庭を壊した罪深さが身に沁みている様子だ。そんなサルに死刑を課して、今度はサルの息子から親を奪うことが、果たして“社会正義”の名の下に行われるべきことだろうかとの想いが強く湧いた。だから、死刑反対の意見のほうが上回るだろうとの予測は当たったのだが、驚いたのはむしろ、死刑反対の得票が辛くも過半数に留まった投票結果だった。


 山田憲人【おさらい会】の演じた検事の重々しい口調に説得力があったということなのか、「刑罰」というように、思いのほか多くの人々が刑を「罰」として側面で捉えていて、事犯の重大性を以て判断する傾向が昨今の厳罰化機運のもとに醸成されているからなのか、興味深く感じた。思わず主催したREDのママ鍋島恵那【劇団彩鬼】に、2回目の公演の投票結果を訊ねてみたが、奇しくも1回目と全く同じだったとのこと。判事や証人のカニを演じていた清里達也【TRY-ANGLE】が栗・蜂・臼・糞の助力を得て復讐的私刑を下す機会を得ながら、「なぜか殺すことはできませんでした」とも証言していたのに、被害者でもない者が被害者感情を理由に厳罰化を求める風潮が確かに浸透してきているような気がして、不寛容の時代を象徴しているように感じた。


 被害者へのケアはもちろん必要なのだが、それは加害者に対する措置によってではなく、直接、被害者に対してなされるべきものだ。それなのに、そちらのほうはむしろないがしろにする形で、加害者に対する措置のみが喧伝されている気がしてならない。必要なのは、被害者が見舞われる拭い難い報復心に応えることではない。その報復心を否定することなく、報復心への囚われから解放することだと思われるのに、むしろ報復心を煽るようなことさえしている向きがあるように感じている。善後策として大切なことは、抽象的で口実的な“社会正義”ではなく、具体的な“被害者へのケア”だと思う。加害者に極刑を加えることを以て“被害者へのケア”だというのは欺瞞以外の何物でもない気がしてならない。





『刑務所の中』の拙日誌


http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2003j/07.htm








  ヤマ

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     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)




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2019年07月16日

【7/20?8/24】今週末からスタート!「としまアート夏まつり2019」

としまアート夏まつり2019


日程:2019年7月20日(土)〜8月24日(土)

会場:あうるすぽっと、区民ひろば、ぞうしがや こどもステーション、自由学園明日館

公式WEBサイト:https://toshima-saf.jp


アートと出会えるおまつりとして、毎夏豊島区で開催されている『としまアート夏まつり』。13回目となる今年は、区内複数の会場で、様々なジャンルのアーティストによる作品上演や参加型プロジェクトがおこなわれます。

あうるすぽっとではメインプログラムである「子どもに見せたい舞台」シリーズを開催。0歳児から入場可能な演劇公演です。6ヶ所の区民ひろばでは、プロの俳優による「よみしばい」を実施。演劇に触れるきっかけをご用意します。また、アニメーション上映会や親子向けのライブなど、様々な企画も展開されます。子どももおとなも一緒にアートを楽しめる豊島区発の『としまアート夏まつり』に、今年もぜひご期待ください。


【プログラム】

◆子どもに見せたい舞台vol.13 おどる韓国むかしばなし『春春〜ボムボム〜』◆

https://toshima-saf.jp/2019/bombom.html

日程:7月20日(土)〜28日(日) 全10回公演

会場:あうるすぽっと

作:金裕貞(キム ユジョン)

振付・構成・演出:スズキ拓朗

▽お問合せ:あうるすぽっと TEL: 03-5391-0751

東アジア文化都市2019豊島 舞台芸術部門 スペシャル事業


◆あうるすぽっとプロデュース 育てる展示「ひがしあじあのちょうちんたち ―ちょうちん らんたん ちょろん―」◆

https://toshima-saf.jp/2019/chouchin.html

日程:7月20日(土)〜8月11日(日・祝)

会場:あうるすぽっとホワイエ/ライズアリーナビル1Fエントランスホール

▽お問合せ あうるすぽっと TEL: 03-5391-0751


◆アーティストとあそぼう!「ものと からだで あそぼう」◆

https://toshima-saf.jp/2019/mono-karada.html

日程:7月20日(土)

会場:ぞうしがや こどもステーション

アーティスト:目黒陽介、イーガル

▽お問合せ:NPO法人芸術家と子どもたち TEL:03-5906-5705


◆よみしばい『すずむしひめ』◆

https://toshima-saf.jp/2019/suzumushihime.html

日程:7月28日(日)〜8月18日(日) 全6回

会場:区民ひろば(豊島区内6カ所)

原作:手恷。虫 (いそっぷ社『手恷。虫の昆虫博覧会』より)

アーティスト:Theatre Ort

▽お問合せ:各区民ひろば


◆レトロ空間で楽しむ上映会「アニメーション・トラベル!」◆

https://toshima-saf.jp/2019/animation-travel.html

日程:7月31日(水)

会場:重要文化財 自由学園明日館 講堂

ナビゲーター:水江未来

ーーーーーーーーーーーーーー

\同日開催/「あそびパーク」

会場:自由学園明日館 芝生

ーーーーーーーーーーーーーー

▽お問合せ:NPO法人アートネットワーク・ジャパン TEL 03-5961-5200

豊島区 地域の文化活動拠点づくり事業

豊島区×自由学園明日館・東京第一友の会 FFパートナーシップ協定事業


◆親子で楽しむ ぷちライブ!「異国の楽器とうたのライブ!」◆

https://toshima-saf.jp/2019/gakki-uta.html

日程:8月24日(土) 

会場:ぞうしがや こどもステーション

アーティスト KAMOSU(かもす)

▽お問合せ:NPO法人芸術家と子どもたち TEL:03-5906-5705

豊島区 地域の文化活動拠点づくり事業



主催:としま文化創造プロジェクト実行委員会(豊島区、豊島区教育委員会、NPO法人アートネットワーク・ジャパン、NPO法人芸術家と子どもたち、公益財団法人としま未来文化財団)


助成:一般財団法人地域創造、令和元年度 文化庁 文化芸術創造拠点形成事業


▽としまアート夏まつりに関するお問合せ:

NPO法人アートネットワーク・ジャパン TEL:03-5961-5200 MAIL:info@toshima-saf.jp











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2019年03月11日

『Le Père(ルペ\xA9`ル)父』








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 勸弥倔\x98笋㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩\xEB\x96|奨椰\xD0g\x84\xA1\x88槪盤ク不左向き三角1㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩覬\xF8\x8E豈h羨椰\xD0g猟晒センタ\xA9`との慌揖崙恬による鍬\xD4U\x84,澄UJ岑屏が\xDFM佩する幻を\x8C\x9D嵆として宙くのではなく、\xD5J岑屏が\xDFM佩する幻の\x82箸厘\x95泣で宙いた恬瞳だったようだ。


 祇尖で、\xD3\x9B\x91\x9Bの詞\x9D瓩簣倏衣瓩垢\xEB\x95r\xE9g、繁麗ッが匯\x89笋靴討靴泙Φ談紊琳Ľ譴覆気覆匹㋣l竃していたわけだ。いずれも\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われ\xDFM佩するなかで龍わうことなのだろうとの\xBC{誼湖があり、よく竃栖た屮肖だとは房いつつも、方?の是雌と音芦と譛\x96Vに\xD2\x8A玲われ、この决\xE9Lにあるのが\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われた湖\xD2\x99なのかと\xD3Q\xBDKえて富?\x9A櫃ⓗ萁い澄左向き三角1覆鵑箸皺仗瓩遍炤靴世箸い\xA6\x9A櫃❹靴拭\xA3



 附除な繁の\xD7R\x84eができなくなる\xD5J岑屏纂宀の徊は方?の屮肖や啌鮫で\xD3Qて栖たが、繁麗委燐が是\xEByになる纂宀の\x82箸ǂ蚋\x8Aれば、广しく繁鯉議\xBDy匯湖を之いた徊で繁が\xBDUち\xACFわれてくるようになるのであれば、卷なるかなとの峐いが\x9Cイい拭Hǂ討里海箸⓲惨_かになるなかで、\x8F\x8Aがらずにいられない失の怎圷が肝?と溪われていくのだから、兀し篠せる音芦というのは、泌採ばかりかという\x9A櫃砲覆蕕困砲呂い蕕譴覆ǂ辰拭\xA3



 こういう屮肖を\xD3Qると個めて、ドキュメンタリ\xA9`啌鮫〆\x9A鞍佞❺▲襯張魯ぅ洫`〇は、寄した恬瞳だったなぁとの湖信が\x9Cイ唐W献▲鵐疋譴鰕櫃犬\xBF\x98鰈♤Δ湾圓Δ泙任發覆⊊錺▲鵐未鰕櫃犬身弝綢蚌秒世❶W訥蠅曚蒜阿睦Qたばかりの〆チルドレン〇に\xBEAいて、なかなかの挫處だと房った。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   左矢印2〆\xE9g処り繁の啌鮫晩\xD5I〇⇄

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   左矢印2〆ヤマさんのライブ\x82簍郗h〇⇄




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'19. 3. 6. 『Le Père(ルペ\xA9`ル) 父』








'19. 3. 6. 〆Le P┬re左矢印2ルペ\xA9`ル⇄幻〇


氏\x88槩左炒ĺ侘鳥唫廛薀兇ǂ襪櫞`と寄ホ\xA9`ル  





 勸弥倔\x98笋㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩\xEB\x96|奨椰\xD0g\x84\xA1\x88槪盤ク不左向き三角1㋑塵g\xB1O興を\x84佞瓩覬\xF8\x8E豈h羨椰\xD0g猟晒センタ\xA9`との慌揖崙恬による鍬\xD4U\x84,澄UJ岑屏が\xDFM佩する幻を\x8C\x9D嵆として宙くのではなく、\xD5J岑屏が\xDFM佩する幻の\x82箸厘\x95泣で宙いた恬瞳だったようだ。


 祇尖で、\xD3\x9B\x91\x9Bの詞\x9D瓩簣倏衣瓩垢\xEB\x95r\xE9g、繁麗ッが匯\x89笋靴討靴泙Φ談紊琳Ľ譴覆気覆匹㋣l竃していたわけだ。いずれも\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われ\xDFM佩するなかで龍わうことなのだろうとの\xBC{誼湖があり、よく竃栖た屮肖だとは房いつつも、方?の是雌と音芦と譛\x96Vに\xD2\x8A玲われ、この决\xE9Lにあるのが\xD5J岑屏に\xD2\x8A玲われた湖\xD2\x99なのかと\xD3Q\xBDKえて富?\x9A櫃ⓗ萁い澄左向き三角1覆鵑箸皺仗瓩遍炤靴世箸い\xA6\x9A櫃❹靴拭\xA3



 附除な繁の\xD7R\x84eができなくなる\xD5J岑屏纂宀の徊は方?の屮肖や啌鮫で\xD3Qて栖たが、繁麗委燐が是\xEByになる纂宀の\x82箸ǂ蚋\x8Aれば、广しく繁鯉議\xBDy匯湖を之いた徊で繁が\xBDUち\xACFわれてくるようになるのであれば、卷なるかなとの峐いが\x9Cイい拭Hǂ討里海箸⓲惨_かになるなかで、\x8F\x8Aがらずにいられない失の怎圷が肝?と溪われていくのだから、兀し篠せる音芦というのは、泌採ばかりかという\x9A櫃砲覆蕕困砲呂い蕕譴覆ǂ辰拭\xA3



 こういう屮肖を\xD3Qると個めて、ドキュメンタリ\xA9`啌鮫〆\x9A鞍佞❺▲襯張魯ぅ洫`〇は、寄した恬瞳だったなぁとの湖信が\x9Cイ唐W献▲鵐疋譴鰕櫃犬\xBF\x98鰈♤Δ湾圓Δ泙任發覆⊊錺▲鵐未鰕櫃犬身弝綢蚌秒世❶W訥蠅曚蒜阿睦Qたばかりの〆チルドレン〇に\xBEAいて、なかなかの挫處だと房った。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   左矢印2〆\xE9g処り繁の啌鮫晩\xD5I〇⇄

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   左矢印2〆ヤマさんのライブ\x82簍郗h〇⇄




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2019年02月11日

現代地方譚6 アーティスト・イン・レジデンス須崎関連企画『須崎のまちの物語?』(リーディング公演)








'19. 2. 3. 現代地方譚6 アーティスト・イン・レジデンス須崎関連企画『須崎のまちの物語U』(リーディング公演)


会場:須崎市立市民文化会館大ホール(舞台上舞台)





 前作を観たのは、ちょうど一年前になるが、企画タイトルとしてチラシに記されている「現代地方譚6 そこに生き、そこに在る。」との言葉が示す、土地に残る生活感が宿っている点が好もしかった。





 だが、映画でもそうであるように「Uもの」にありがちな鮮度の減退や既視感からは今回の公演も逃れ難く、とりわけ駄菓子屋の老女が口にするリフレインが、ともすれば前回作品のなぞり趣向に映ってくる部分もあって、リーディング公演による読み手の好演には味わい深いものを覚えながらも、なんかパターン化のようなものを感じた。そのせいか、最後の「みかんボールガムの月」には感傷よりも笑いが浮かんできた。





 また、三話のうち一話は戦争の痕跡を残そうという企画的了解事項があったのだろうか。ある種の義務感的な現れ方をしているように感じられる部分があった。披露されたのは『みかんボールガム』(作・演出:サカシタナヲミ)、『洞窟と波の音』(作・演出:西本一弥)、『笑マストゴーオン』(作・演出:谷相裕一)というそれぞれのテイストが際立って異なる三作品。なにゆえ途切れ途切れに継ぎ接ぐ構成にしたのだろう。





 前作では、それぞれ聴き取った地方譚を繰り広げる合間を三人の女性の雑談めいた「まちの声」でつなぐ構成にしたことが功を奏して、須崎という土地が主題であることを鮮明にしていたけれど、それがなくなったために「まち」の部分が抜け落ちてしまった気がする。それぞれの聴き取り話それ自体に須崎特有の物語などを求めることは難しく、また、あまり意味があるとも思えない。普通の町に普通にありふれた“ちょっと耳寄りな話”があるのが地方譚なのであって、そういう話が「このまち」で拾われたものであることを示す部分は、むしろその話自体のなかにはなくて当たり前なのだと思う。前回公演の三作品でも、それ自体で堂々たる「須崎のまちの物語」になっていたのは『銀の海。銀の魚。』だけだった。





 今回は、個々の作品のいずれにも『銀の海。銀の魚。』のような「須崎のまちの物語」がなかったにもかかわらず、「まちの声」の部分まで除いたために「須崎」が抜け落ちたのだろう。三作品を途切れ途切れに継ぎ接ぐ構成を取れば、「まちの声」でつなぐ部分を除く外ないのは自明なのだが、敢えてそうすることで得られた効果があるようには感じられなかった。むしろ「まちの声」を失っただけではなく、テイストの異なる作品を途切れ途切れに継ぎ接ぐことで、せっかくの芝居の感興を分断することにしか、僕には作用して来なかった気がする。





 加えて、『みかんボールガム』だけでも前回ほどには感興をもたらしてくれなかった可能性のあるリフレインを、『笑マストゴーオン』での「めった、メリヤス、メリケン粉」で重ねつつ間に挟んでくることで、『みかんボールガム』での駄菓子屋の老女が口にするリフレインの効果を著しく減退したような気がしてならない。それぞれの演者(読み手)は各自のスキルに見合った力量をいかんなく発揮していたように思うし、聴き取りに材を得た話そのものには血の通った生活感があって、いずれも悪くない話のように感じたが、全体構成が僕の意に沿わなかったために前作のような感興は得られなかったのが残念だった。





(前回公演の観賞メモ)











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

     (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系

2018年12月30日

時々自動公演「コンサート・リハーサル」



時々自動40年の軌跡 (奇跡?)と新たな可能性が渾然一体となった最新作が3年に亘る準備期間を経てついにみなさまの視界の中央に出現します。 



「時々自動」を名乗る前衛劇団が企画したシアトリカル・コンサートの前日、最後のリハーサル現場で起こる不条理な出来事の数々。



 時代の濁流を時々自動18人の仲間と筏で遡る奇才朝比奈尚行が、フェデリコ・フェリー二の『オーケストラ・リハーサル』に触発されて発案したソーシャリスティック・アヴァンガード・エンターテインメント。さまざまな未聞のアイデアで彩られた午睡の妙夢にも似た1時間40分です。千客万来!



 



◆会場



KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ



 



◆スケジュール



228() 1930分★



31() 14時◎★ 1930分★



32() 13時★ 18時★



33() 12時◎ 16



 



*開場は開演の30分前



★アフタートーク開催。詳細はウェブサイトで発表します。



◎託児サービスあり。公演一週間前までに要予約・有料・定員制



お申込み:マザーズ0120-788-222 (平日10時〜12時、13時〜17)



 



◆チケット (日時指定・全席自由・税込)



前売:一般 3,800円 



ペア:7,200円 



U25 (25歳以下)2,800円 



高校生以下:1,800



 



*当日券は各種ともに+500 (ペアチケットは前売のみ)



*未就学児入場不可



U25、高校生以下は当日受付にて証明書提示



*車椅子でご来場の方は事前に時々自動までご連絡ください。



 



◆チケット取り扱い



【時々自動】



予約フォーム https://www.quartet-online.net/ticket/tokidoki-konriha2019



mailtickettokidoki-jido.com  (■を@に変えてください)



*氏名、観劇日時、券種、枚数をお知らせください。



 



【チケットかながわ】



http://www.kanagawa-arts.or.jp/tc/



tel0570-015-415 (10時〜18) 



窓口:KAAT神奈川芸術劇場2F (10時〜18)



 



【チケットぴあ】



tel0570-02-9999 (Pコード:491255) ※一般券のみ



 



◆出演



朝比奈尚行 宇佐美とよみ 岡本唯 岸山絵美 鈴木光介 砂川佳代子 高橋牧 日高和子 渡辺直美



伊地知一子 柴田暦 高野真由美 高橋千尋 三井耶乃 和久井幸一



BUN Imai チカナガチサト



浅香舞衣 荒木亜矢子 伊野香織 景山思保 加藤真悟 上条拳斗 木内里美 小林あや 渋谷采郁 須田彩花



武田有史 橘 麦 都田かほ 深堀絵梨 松島州伸 丸山港都 宮田幸輝 村田実紗 山石未来 吉川みのり



 



◆スタッフ



【構成・演出】朝比奈尚行



【音楽】朝比奈尚行 今井次郎 鈴木光介 



【美術】宇佐美とよみ



【映像】朝比奈尚行 和久井幸一 



【照明】齋藤茂男 是安理恵



【音響】島猛



【舞台監督】横沢紅太郎



【演出助手】~野真理亜



【企画・制作・主催】泣eィコ・ディコ  



【提携】KAAT神奈川芸術劇場



【助成】アサヒグループ芸術文化財団



【協力】魚谷彩会 (ZON) 大山笑吾 舘野百代 飛田ニケ 西邨紀子 藤田真砂子 前澤秀登 横山展子



Diamond Rush e-factory 山田ジャパン 蔵プロダクション



 



「コンサート・リハーサル」特設サイト



https://concertrehearsal.wixsite.com/tokidoki-jido



posted by アーツワークス at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系