2020年07月18日

文学座公演『大空の虹を見ると 私の心は躍る』








'20. 7. 8. 文学座公演『大空の虹を見ると 私の心は躍る』(高知市民劇場第345回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 本作の舞台、新星劇場のラストショーでの最終上映作だった『草原の輝き』['61]を、『ウエスト・サイド物語』['61]との二本立てで三十八年前に観せてもらったのは、今はなき高知名画座だ。そこのラストショープログラムは、『モーリス』['87]と『眺めのいい部屋』['86]だったようだが、僕は、最後の日には駆け付けていない。手元の記録に残っている '80.4月から'89年1月までに観た作品は、152本しかないけれども、僕にとっては、ひときわ思い出深い映画館だ。僕が高知映画鑑賞会の自主上映活動に携わる契機になった例会作品『皆殺しの天使』['62]の上映会場も、高知名画座だった。


 芝居のなかで、“どこにも行き場のなくなった人が赴く場所”のように言われていた映画館にしょっちゅう入り浸っている僕は、この台詞に苦笑せざるを得なかったのだが、映画館がそういう人たちの息の継げる場所であることを自認しながら、いじめに遭っていた我が子の苦境に気づかず事もあろうに映画館から学校へと追いやり、中学生で自死させてしまった苦衷を抱える映画館主(鵜澤秀行)の人物像に感じ入るものがあった。


 長男の映一(柳橋朋典)が高校時分からゲイであることに気づきつつ、どう対処していいか判らないから狼狽はしても息子に気づかれないよう見守るだけで、動転したり激したりはしなかったことが、映画を通じてヴィスコンティやパゾリーニ、ツァイミンリャンなどによって見知っていたからだと告げた場面で、気づきながらスルーしたことを息子から咎められていた姿が印象深かった。登場人物の誰もが屈託を抱えて生きていたが、僕の眼には、映画館主がいちばんのように感じられた。その彼が「大空の虹を見ると 私の心は躍る」とワーズワースの詩を叫ぶ物語だ。


 キャラクターとして目を惹いたのは、映一より十歳年嵩の同棲相手の太一(木津誠之)だったが、物語上の配置として目を惹いたのは、『ホテル・ニューハンプシャー』['84]でスージー・ザ・ベアを演じていたナスターシャ・キンスキーの名を出してその登場に了解感を与えていた映写技師の大野(山森大輔)と、ゲイカップルや歳の差カップルに「(普通じゃない!)問題だわ〜」と突っ込む女性従業員(頼経明子)の存在だった。


 前者は、熊ならぬウサギの着ぐるみを脱ぐことができず寡黙に生きるという特異な生き方を故あって余儀なくされている男だが、彼にとって、その生き方を受容してくれる映画館主の存在が必要だったと同時に、受容しつつも彼に「脱げ!」と言ってくれた中年女性の須美江(名越志保)がいてこそ果たせた脱皮だったことが印象深かった。熊の着ぐるみで暮らしていたスージーの心の傷はレイプだったが、ウサギの着ぐるみを脱ぐことのできない大野が、人には晒せない心の傷を深く抱えていることを察知すればこそ、そして、それが亡くした息子に関係している可能性を感じていればこそ、映画館主は、大野を見過ごすことが出来なかったのだろう。新星劇場で映画を観たことのない須美江を老母の介護の骨休めに、心安くロビーで寛がせる映画館主なれば、尚のことだ。


 なぜ知っていて雇ったかと映一は非難していたが、映画館主にしてみれば、自分は着ぐるみこそ着ていないけれども、事件以来、殻を被って生きるほかなくなっていることを痛感していただろうから、スージー・ザ・ベアさながらの姿で現れた大野の胸中が身に沁みたに違いない。そういう意味では、息子に死なれる前の自分には二度と戻れないことが痛いほど判っているからこそ、換言すれば、子供の頃のように虹を見て心を躍らせることが叶わなくなっているからこそ、大人になっても虹を見て心躍らせたいと願わずにいられないのだ。映画館主がワーズワースの詩を叫ぶのは、そういうことであって、ただ彼の詩が好きなだけではなかったに違いない。大野の傷ついた心を守るために着ぐるみが必要だったのと同様に、映画館主の心を保つために必要だったものが大空の虹なのだと思う。


 後者については、普通じゃないことを指摘する彼女自身が体型のみならず極めて個性的であることによって、世の中にはマイノリティを紛れなく指弾できるようなマジョリティなるものを体現している存在などなく、誰もがそれぞれ何らかの部分でマジョリティとはならない“個性”を備えているのが人間であることを示していたような気がする。僕自身を振り返っても、例えば、還暦を過ぎる今までのところ異性愛者であることは、マイノリティの側ではないのだろうが、ケータイ・スマホの非保持者であることは、今やマイノリティの側であるに違いない。そういったことに留まらず、マイノリティとマジョリティということについて、思うところの多かったであろう作り手ならではの登場人物たちの造形だと思った。


 そして、事件が起きたときは過剰に注目しながらも、その後については頓着しない人々の関心といったことも、事件関係者というマイノリティと、世間やメディアといったマジョリティとされる側との対比で捉えている視線が窺われるとともに、先ごろ観たばかりの映画『家族を想うとき』['19]の原題「Sorry We Missed You」を想起させられた。だが、それだけシリアスな題材だけに、そこに落ち込まないよう苦心惨憺している部分が、人によっては違和感に繋がる面があるかもしれないとも思った。


 昭和二十一年創業という新星劇場の待合に貼られていた映画ポスター『エデンの東』『サウンドオブミュージック』の隣の作品が気になり、終演後、ステージ前まで近寄り確かめたら、『芽ばえ』['57]だった。これは未見作品なのだが、並ぶ二本の映画と同列にある作品のようには思えない。どういうところからの選定だったのだろう。また、僕の席からは全く識別できなかった壁に貼り付けた映画のチラシも目を惹いたが、新型コロナウィルス禍の折りバックステージツァーなどあるわけもなく、残念至極だった。











  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)






posted by アーツワークス at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系
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