2020年02月09日

'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』








'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』


会場:蛸蔵





 大阪を中心に活動している階ユニットが地元の蛸蔵と組んで企画・制作した作品だそうだ。舞台となった「ここに来る人は誰もが遠くから」という偽物の灯台のある公園が何を意味しているのかを思うとき、目に留まったのが、舞台下手の案内板と「腕章の男」(七井悠)の腕章に記されていた「(蛸)公園倫理委員会」だった。普通は「(財or社)〇〇公園管理協会」といった名称なのだが、“管理”ではなく“倫理”となっていたことが目を惹いた。もしかすると「公園」には「公演」を掛けた意味合いがあって、ここに言う公園とは、公演を行う場所すなわち蛸蔵のような劇場のことをシンボライズしているのではないかという気がした。となれば「遠く」とは、日常性を指すのかもしれない。


 そして、公園を公演と読み替えたうえでの偽物・本物、報告書の名の下に記されるべきもの、記し得るもの得ないもの、続けること、穴があくことの意味、あいた穴の持つ意味など、提起された様々な言葉が触発してくれるものはいろいろあったのだが、いずれも意味深長で非常に大事なことでありながら、作り手の想いに触れたように感じられる部分が乏しく、妙に総花的な羅列のような感じのしたところが物足りなかった。もとより“倫理”の名の下に明言できる質のものではないから、そのようなことを望んでいるわけではないが、いろいろ出してみて、とにかく語り続けることなんだと、わぁ〜っと最後、歌と音楽で煙に巻かれた感じの仕舞い方が気に沿わなかったのかもしれない。これでもって、チラシに記された惹句「語り得ぬものについて沈黙しないために。」と言われてもなぁという想いが湧いた。


 タイトルにフーガとしたうえで「行き止まり」を持ってきて、舞台上に設えられた案内板に図示までしてあったことからは、公演の倫理ということについては、単に演劇公演だけではなく、広く芸術表現にフーガ的に現れるものとしての意図があったように感じられ、直近の「あいちトリエンナーレ」のなかの「表現の不自由展・その後」を想起させる部分や時事ネタ的には旬の極みとも言うべき「シュレッダー」への言及もあってアクチュアリティに富んでいたように思う。それだけに余計に、作り手の想いに触れたように感じられる部分の乏しかったことに不満を覚えたのだろう。


 なんだかX JAPAN のYOSHIKIのイメージを模したような「招かれたので来た男」を演じた佐々木峻一が妙に可笑しくて面白かったが、去年の「World Music Night vol.28 “さえずりな夜&高知カリビアン・ハーツ”」に出向いたときに強い個性を感じさせて印象深かった山村誠一が、芝居で「唄うたい」を演じるとしっくりこない感じが強くて、やはり演劇の人ではないのだなと感じた。それゆえか否か最初と最後に舞台に上がるというか降りてきて演じただけで、途中はずっと雛壇と言うか、殿上人のような位置に祭り上げられていたのが妙に苦肉の策のようにも映ってきた。タネマキカクでの『…』で見覚えのある柴千優【赤い靴の女】は、口調に癖のある部分が魅力的な個性になっているように感じた。荒木晶成の演じていた「灯台守をしていた男」は最も重要な人物だったように思うのだが、その造形が不足していて演じるのが難しい人物になっていた気がする。彼が最初に「赤い靴の女」に指し示す“穴”にまつわる遣り取りがもう少し書き込まれているべきではないかという気がした。








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/187141374
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック