2020年02月09日

'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)








'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 終演後の舞台挨拶で市民劇場の仕組みを“世界に類のない観劇システム”として高く評価していた加藤健一は、テレビどころか映画すら遠ざけて、“生舞台”にこだわり地方に持って出るうえで、衰えてきている市民劇場の資金力を考慮して負担金を抑えるべく製作費を切り詰めているような気がした。


 例会作品としては四年前になる前作『Be My Baby いとしのベイビー』(http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/16/3-21.html)と同じ二人芝居だったわけだが、前作を観たときには思わなかったことを感じたのは、やはり馬琴の妻の百(高畑淳子)と息子の宗伯(風間杜夫)を声のみでの出演にしていたからだろう。2011年の初演時からそうだったようだから、東京公演と地方公演で異なる構成にしたのではなく、元々の造りをそうしていたわけだ。地方都市での生舞台にこだわる加藤健一が東京と地方とで異なる構成にして持って出る本末転倒をするはずもなく、元から旅公演を想定した作品製作をしているに違いない。


 だが、本作については、滝沢馬琴(加藤健一)と宗伯の妻お路(加藤忍)との絡みだけではなく、馬琴とお百、お路と百、宗伯と馬琴、宗伯とお路の絡みも目の当たりにしたい恨みが残り、声だけでの出演が物足りなく思えて仕方がなかった。せめて奥の部屋や廊下のほうから聞こえてくる声のように感じられる音響処理をしていればまだしも、あからさまに役者の不在のみを印象づける中空からの声出しだったから、余計にそのように感じたのかもしれない。


 その一方で、舞台装置はしっかり作ってあって、重要な屋根の上の場面は星空ともども実に美しく、舞台を貧相に見せることがついぞなくて流石だと思った。とりわけ梯子を上ることもなく何処から姿を現わしたかと思わせた路と馬琴の屋根の上での場面の処理が鮮やかで、幻と生身の対照がストンと入ってくるタイミングでの素早い移動ともども御見事であった。


 それにしても、かほどの“内乱”に四六時中心を乱され、息つける居場所が夜の屋根の上しかないというような状況のなかで二十八年間に渡って『南総里見八犬伝』を書き続け、ある意味『源氏物語』以上に親しまれる稀代の小説を成し遂げた馬琴の凄さに恐れ入った。晩年は口述筆記に頼ったことは知っていたが、その役割を担ったのが亡き息子の嫁で、しかも読み書きが得手ではなかった女性であることは初めて知った。機関紙の解説に実際に路が口述筆記した遺稿の写真を掲載して、極短期間に口述筆記が上達した様子を見せてくれていたが、日々の仔細を丹念に日記に残していたらしい馬琴の日記に、馬琴が屋根の上で見た幻の場面を偲ばせるような記述は果たしてあったのだろうか。


 妻が亡くなった際の「これで内乱が終わった」との馬琴の台詞の“内乱”の使い方が、本作に描かれた家庭の事情の様子からは少々似つかわしくない気がしたので、実際の日記にあった言葉のように感じた。おそらくは着想の大半を馬琴日記に負っていると思しき本作における、馬琴の秘めたる路への想いの記述があったのか、かほどの“内乱”のなか馬琴に書き続けるエネルギーを与えたミューズとして、作者の吉永仁郎が造形したものなのか、路の実に進歩的で主体的な女性像に窺える現代性とともに、気になるところだった。その稀代の大小説をものした作家のミューズに足る魅力を加藤忍がいかんなく発揮していたように思う。








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)




posted by アーツワークス at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/187141353
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック