2020年03月13日

劇団彩鬼第12回公演 『蟲ヶ蠢(むしのね)』








'20. 2.23. 劇団彩鬼第12回公演 『蟲ヶ蠢(むしのね)』


会場:蛸蔵





 オープニングの雨のなかの惨劇場面に対してセリフや声を赤い字幕にし、雨音と青い光で見せたことが効いて音と光による想像力を刺激してくれたことが、花火の場面にもうまく作用していたところに感心した。


 今回の台本【吉村領】は、人の営みに関する捉え方に深みがあってなかなか良かったのだが、この彩鬼の真骨頂も言うべき“イマジネーションの刺激”が、さまざまな言葉や事象における両義性や多義性というものに関しても大いに刺激を与える形で、台本の良さをうまく引き出すことに作用していたように思う。


 まさにタイトルに記された「蟲」の文字が視覚的に示しているように、たくさんの寄生虫イメージが多義的に提示されるうえに、「報い」とすると負のイメージをもたらす言葉が「報われる」となると良いイメージを付与されるような両義性についても、深みのあるイメージをもたらしていた気がする。


 チラシに記された「心のきず。絆のほころび。欲のかけら。情のきれつ。」といった人の弱さに憑りつくという“虫”の巣食いを見抜き、虫に憑かれた者を成敗することの意味するところは何なのだろう。八岐大蛇を退治して得られたとする虫斬刀は、正義の太刀だとしても、その行使が生むのは悲劇でしかないのではないか。赦されないのは、虫斬刀の行使なのか、その抜刀を使命として負うことからの逃避なのか。


 作り手が、虫斬刀にどういう始末をつけるか大いに迷い悩んだ形跡が窺えたところに真摯さの感じられる作りになっていた点がとても好もしかった。僕的には、虫斬刀を捨てさせる結末になっていても、背負う覚悟をする結末になっていても、結論的にはどちらでも構わない。どちらにしても何らの迷いもなかったりすると気に入らないが、そうはなっていなかったところを支持したいと思った。千屋蓮華が溌溂と演じた逢八虹(あやめ)という、殺められようのない定めの少女が和正(行吉忠義)に放った「赦さない!」との言葉が深く痛烈だったからだ。八岐大蛇の精を継ぎ、八つの虹に逢う定めの少女が観るこれからの世界で、和正はどう生きなければならないのか、なかなか余韻のあるエンディングだったと思う。


 妖刀村正のごとき切れ味を備え、ライトセーバーのごとく柄の部分しか見えない虫斬刀が目を惹いた。人の目には見えない蟲ヶ蠢を嗅ぎ付ける“映らずの刃”との設定なればこそ、殺陣場面でも役者が小道具に惑わされることなく存分に動ける一方で、下手すると“映らずの刃”の存在が観客に伝わらなくて失笑を買いかねない。その点では、凛々しく雫を演じた浜田真緒も行正もなかなかよくやっていて流石だった。


 龍笛【寿延】、ギター【北川昌平】、キーボード【さみー】の奏でる音楽も物語を効果的に運んでいて上々だったように思う。前田澄子の遺作として今や名作との印象を残している『鬼被威−おにかむい−』に迫る出来栄えのように感じたのだが、観劇後、語り・演出の鍋島恵那から聞いた話では、僕の観た回の公演はいろいろアクシデントが起こっていて、舞台裏では冷や汗をかいていたのだそうだ。僕自身は、特に違和感を感じていなかったので、舞台側の事情に気づかなかったのは、僕の注意力が落ちていたということかもしれない。









  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/


   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)





posted by アーツワークス at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇・パフォーマンス系