2020年02月09日

'20. 2. 2. 田上パル vol.18 『Q学』








'20. 2. 2. 田上パル vol.18 『Q学』


会場:高知市文化プラザかるぽーと小ホール





 観終えて作品タイトルの意味が、休学でも究学でもなくてまるでピンと来なかったのが残念だったけれども、一線に並んだ女子高生たちの手拍子と共に繰り返される「演劇!」の声で始まり終わった芝居を観ながら、“演劇”なるものを信じ称える作り手の想いが伝わってきたように感じられて、何だかえらく心打たれた。


 既に還暦も過ぎ、もう何十年来と聴き馴染んでいる♪あの素晴らしい愛をもう一度♪をかように感慨深く聴いたのは、初めてのように思った。舞台となったとある高校の表現選択科目「演劇」の授業の発表演目として取り上げられた太宰の『走れメロス』にまつわる速度ネタは、何年か前に中学生が取り上げて話題になったことに端を発したものだった覚えがあるが、メロスの走りが♪命〜懸けてと〜誓った♪ものだったか否かはともかく、軍曹と仇名された坂口(とみやまあゆみ)が来ることを願って走り続ける級友たちの姿が面白く、遅れに遅れて到着した坂口に浴びせかけられる張り扇の嵐が、十代の特権のように感じられて眩しかった。


 田上豊の作品を観るのは、二年前に観た『報われません、勝つまでは 土佐弁ver.』の現役高校生版・かつて高校生だった者たち版公演<http://arts-calendar.sblo.jp/article/182881544.html >以来なのだが、高校生たちの活き活きとしたエネルギーを見事に掬い取っていて実に好もしかった。会場で配布されたリーフレットによれば、本作は、作者の田上が二十代の中盤に実際に高校で非常勤講師の仕事をしていて体験したことがベースになっているそうだ。それゆえの力だったかと得心がいった。


 また、公演に引き続き披露された公開ワークショップも、演劇なるものの力と妙味を愉しく深く伝えていて、とても興味深いものだった。なかなかいい企画だったように思う。








  ヤマ

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'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』








'19.12. 1. 蛸の階公演『行き止まりの遁走曲』


会場:蛸蔵





 大阪を中心に活動している階ユニットが地元の蛸蔵と組んで企画・制作した作品だそうだ。舞台となった「ここに来る人は誰もが遠くから」という偽物の灯台のある公園が何を意味しているのかを思うとき、目に留まったのが、舞台下手の案内板と「腕章の男」(七井悠)の腕章に記されていた「(蛸)公園倫理委員会」だった。普通は「(財or社)〇〇公園管理協会」といった名称なのだが、“管理”ではなく“倫理”となっていたことが目を惹いた。もしかすると「公園」には「公演」を掛けた意味合いがあって、ここに言う公園とは、公演を行う場所すなわち蛸蔵のような劇場のことをシンボライズしているのではないかという気がした。となれば「遠く」とは、日常性を指すのかもしれない。


 そして、公園を公演と読み替えたうえでの偽物・本物、報告書の名の下に記されるべきもの、記し得るもの得ないもの、続けること、穴があくことの意味、あいた穴の持つ意味など、提起された様々な言葉が触発してくれるものはいろいろあったのだが、いずれも意味深長で非常に大事なことでありながら、作り手の想いに触れたように感じられる部分が乏しく、妙に総花的な羅列のような感じのしたところが物足りなかった。もとより“倫理”の名の下に明言できる質のものではないから、そのようなことを望んでいるわけではないが、いろいろ出してみて、とにかく語り続けることなんだと、わぁ〜っと最後、歌と音楽で煙に巻かれた感じの仕舞い方が気に沿わなかったのかもしれない。これでもって、チラシに記された惹句「語り得ぬものについて沈黙しないために。」と言われてもなぁという想いが湧いた。


 タイトルにフーガとしたうえで「行き止まり」を持ってきて、舞台上に設えられた案内板に図示までしてあったことからは、公演の倫理ということについては、単に演劇公演だけではなく、広く芸術表現にフーガ的に現れるものとしての意図があったように感じられ、直近の「あいちトリエンナーレ」のなかの「表現の不自由展・その後」を想起させる部分や時事ネタ的には旬の極みとも言うべき「シュレッダー」への言及もあってアクチュアリティに富んでいたように思う。それだけに余計に、作り手の想いに触れたように感じられる部分の乏しかったことに不満を覚えたのだろう。


 なんだかX JAPAN のYOSHIKIのイメージを模したような「招かれたので来た男」を演じた佐々木峻一が妙に可笑しくて面白かったが、去年の「World Music Night vol.28 “さえずりな夜&高知カリビアン・ハーツ”」に出向いたときに強い個性を感じさせて印象深かった山村誠一が、芝居で「唄うたい」を演じるとしっくりこない感じが強くて、やはり演劇の人ではないのだなと感じた。それゆえか否か最初と最後に舞台に上がるというか降りてきて演じただけで、途中はずっと雛壇と言うか、殿上人のような位置に祭り上げられていたのが妙に苦肉の策のようにも映ってきた。タネマキカクでの『…』で見覚えのある柴千優【赤い靴の女】は、口調に癖のある部分が魅力的な個性になっているように感じた。荒木晶成の演じていた「灯台守をしていた男」は最も重要な人物だったように思うのだが、その造形が不足していて演じるのが難しい人物になっていた気がする。彼が最初に「赤い靴の女」に指し示す“穴”にまつわる遣り取りがもう少し書き込まれているべきではないかという気がした。








  ヤマ

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'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)








'20. 1.22. 加藤健一事務所公演『滝沢家の内乱』(高知市民劇場第342回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 終演後の舞台挨拶で市民劇場の仕組みを“世界に類のない観劇システム”として高く評価していた加藤健一は、テレビどころか映画すら遠ざけて、“生舞台”にこだわり地方に持って出るうえで、衰えてきている市民劇場の資金力を考慮して負担金を抑えるべく製作費を切り詰めているような気がした。


 例会作品としては四年前になる前作『Be My Baby いとしのベイビー』(http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/16/3-21.html)と同じ二人芝居だったわけだが、前作を観たときには思わなかったことを感じたのは、やはり馬琴の妻の百(高畑淳子)と息子の宗伯(風間杜夫)を声のみでの出演にしていたからだろう。2011年の初演時からそうだったようだから、東京公演と地方公演で異なる構成にしたのではなく、元々の造りをそうしていたわけだ。地方都市での生舞台にこだわる加藤健一が東京と地方とで異なる構成にして持って出る本末転倒をするはずもなく、元から旅公演を想定した作品製作をしているに違いない。


 だが、本作については、滝沢馬琴(加藤健一)と宗伯の妻お路(加藤忍)との絡みだけではなく、馬琴とお百、お路と百、宗伯と馬琴、宗伯とお路の絡みも目の当たりにしたい恨みが残り、声だけでの出演が物足りなく思えて仕方がなかった。せめて奥の部屋や廊下のほうから聞こえてくる声のように感じられる音響処理をしていればまだしも、あからさまに役者の不在のみを印象づける中空からの声出しだったから、余計にそのように感じたのかもしれない。


 その一方で、舞台装置はしっかり作ってあって、重要な屋根の上の場面は星空ともども実に美しく、舞台を貧相に見せることがついぞなくて流石だと思った。とりわけ梯子を上ることもなく何処から姿を現わしたかと思わせた路と馬琴の屋根の上での場面の処理が鮮やかで、幻と生身の対照がストンと入ってくるタイミングでの素早い移動ともども御見事であった。


 それにしても、かほどの“内乱”に四六時中心を乱され、息つける居場所が夜の屋根の上しかないというような状況のなかで二十八年間に渡って『南総里見八犬伝』を書き続け、ある意味『源氏物語』以上に親しまれる稀代の小説を成し遂げた馬琴の凄さに恐れ入った。晩年は口述筆記に頼ったことは知っていたが、その役割を担ったのが亡き息子の嫁で、しかも読み書きが得手ではなかった女性であることは初めて知った。機関紙の解説に実際に路が口述筆記した遺稿の写真を掲載して、極短期間に口述筆記が上達した様子を見せてくれていたが、日々の仔細を丹念に日記に残していたらしい馬琴の日記に、馬琴が屋根の上で見た幻の場面を偲ばせるような記述は果たしてあったのだろうか。


 妻が亡くなった際の「これで内乱が終わった」との馬琴の台詞の“内乱”の使い方が、本作に描かれた家庭の事情の様子からは少々似つかわしくない気がしたので、実際の日記にあった言葉のように感じた。おそらくは着想の大半を馬琴日記に負っていると思しき本作における、馬琴の秘めたる路への想いの記述があったのか、かほどの“内乱”のなか馬琴に書き続けるエネルギーを与えたミューズとして、作者の吉永仁郎が造形したものなのか、路の実に進歩的で主体的な女性像に窺える現代性とともに、気になるところだった。その稀代の大小説をものした作家のミューズに足る魅力を加藤忍がいかんなく発揮していたように思う。








  ヤマ

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