2019年11月03日

能×現代音楽×アート“Nopera 葵 AOI”








'19.11. 3. 能×現代音楽×アート“Nopera 葵 AOI”


会場:高知県立美術館能楽堂





 僕は能もオペラも、数える程しかライブ公演を観たことのない門外漢だし、Nopera はノペラであって、能でもオペラでもないと言われればそれまでなのだが、能の動きの象徴性を楽しむには様々な音の響きに気を逸らされるし、オペラを冠する作品にしては華美やスケール感からは程遠い、妙に焦点の定まらない散漫な舞台のように感じた。


 隣席が、プレトークのときから鼾を洩らしている女性と、本番中ずっと咳込んでいる女性のこうべった装いの二人連れで、大いに気が削がれて集中できなかったということもあるけれど、何よりも六条御息所の年増の怨念の凄みが伝わってこなかったのが残念だった。


 演者がとても若々しい女性(青木涼子)だったこともあって仕方がないのかもしれないが、衣装にしても音作りにしても、奇抜なことをすればいいというものではないよなぁとの想いが湧いた。当日配布のリーフレットに記されていた「…衣装はデコ電と往年のアイドル(「怨念のアイドル」を掛けた駄洒落w)の顔の刺繍が九つ入った布団。布団は葵上の病床、または六条御息所と光源氏の情事のアイテムから…」というようなノリが災いしているのかもしれない。


 音楽(作曲:馬場法子)の演奏自体は、なかなか興味深く、さまざまな音の響きが出てくるたびに、どの楽器を使っているのか、オケボックスと能舞台の双方を目が行き交った。なにせ能舞台には、張り渡された糸電話のみならず、見慣れぬ音出し装置が種々置いてあり、パーカッショニスト(池上英樹・畑中明香)が大活躍するのだ。そのうえで、チェロ(多井智紀)を始めとする弦楽器や、バスーン(中川日出鷹)を始めとする管楽器が、聞き慣れない響きを発し、密やかなコーラスまで行うのだから、そのぶん自ずと能舞台での動きを注視できなくなってしまった。


 奇抜さや物珍しささえあれば面白がれる向きには、能舞台という設えも含めて、確かに恰好のパフォーマンスだったのかもしれないが、僕にとっては、音楽と能がうまくコラボしているとは思えない舞台だった。あれだけ音楽が強くて、衣装があざといと、演出(佐藤美晴)は、さぞかし大変だったろうなぁ。









  ヤマ

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   (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

   (『ヤマさんのライブ備忘録』)




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文学座 公演『再びこの地を踏まず』(高知市民劇場第340回例会)








'19. 9. 9. 文学座 公演『再びこの地を踏まず』(高知市民劇場第340回例会)


会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール





 長らく連れ添うのはよいものだなぁとの感慨の湧くなかなか気持ちのいい芝居だった。還暦も過ぎた僕が子供の時分、学校の先生が勧める読書の最右翼が偉人伝で、なかでも野口英世とエジソンは不動の四番打者のような存在だった。だから、今さら「志を得ずんば、再び故国の地を踏まず」との決意を語られてもと思いつつ、マキノノゾミの作なら一味違うのではないかと思っていたら、偉人とされながらも実はという暴露物でもなければ、それでも彼はやはり偉かったと全面的に讃えるものでもなく、流石だと思った。


 我執の塊でもあった野口英世(今井朋彦)と違って立派なのは、やはり彼を育てあげた人たちで、世に知られた母シカは今さら多くは語られなかったが、「五分の真、二分の侠気、三分の茶目」との含蓄のある言葉を発していた恩師の血脇守之助(若松泰弘)や小学時分の同級生との八子弥寿平(鈴木弘秋)らがあっての英世であったことがよく伝えられていたように思う。


 だが、やはり最も印象深かったのは、妻のメリー・ロレッタ・ダージス(松岡依都美)で、語り手の奥住(佐川和正)が断っていた評伝として残っているものが殆どないという人物像を実に魅力的に造形していた根幹イメージは、作者が一度離婚しながら再び結婚した妻のキムラ緑子にあるのではないかという気がした。「行くのは英世の勝手、泣くのは私の勝手」との台詞に、何かニンマリとさせられた。


 それにしても、当代の“お偉いさん”には「五分の真、二分の侠気、三分の茶目」どころか、一分の真も侠気も茶目もないような気がして何とも情けなくなるとともに、五十路に差し掛かった英世が「人は成長するのだ」と述懐していた言葉に、十四年前に観た第146回市民映画会での『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』と『モーターサイクル・ダイアリーズ』の二本立て観賞の映画日誌に「それでも何となく、人は人から身を以て人生を学ぶべきであることを教えてもらったようなところがあるからこそ、受けた親切を預かりものだと考えているような気がする」と綴ったことを想起させてもらった。


 それとともに、野口が少々弱った身体で再び黄熱病の地を踏むことにした動機に、決して人類貢献のための報恩使命感だけではない野心として、自身の発表した黄熱病の病原体の発見論文に対する疑義が次々と出されていたことへの対抗心が潜んでいたことを怠りなく窺わせていたことに感心した。英世の弁のとおり、人は成長するものであるのと同時に、三つ子の魂百まででもあって、リセットするように更新されるものではない。使命感が五分だったのか、野心が五分だったのか、それが問題なのではなく、何か一つの動機で死の覚悟を要する出張を敢えて受けたのではないという姿にこそ“人間”野口としての真実があるのだと思う。


 愛妻か恐妻かはともかく、西アフリカの任地からの妻への恋文を夥しい数、残していたらしい野口が、親友の堀画伯(若松泰弘)に頼んで素敵な贈り物を用意して妻を喜ばせるのと同時に、信頼する助手兼秘書のエブリン(千田美智子)から電話があると、猫なで声に変わってしまう女好きも終生変わるところがなかったことを併せて描いているところに、妙に作者の拘りが感じられ、思わず笑みが零れた。








  ヤマ

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