2018年05月18日

'18. 5.12. 高知パフォーミング・アーツ・フェスティバル2018 向井山朋子「HOME」









会場:赤岡町赤れんが商家

コンセプト・演出・映像・写真・振付:向井山朋子

パフォーマンス:湯浅永麻

映像・技術監修:遠藤 豊


 珍しくも妻から誘われたライブ公演なのだが、緊張感のあるパフォーマンスレベルの高さに観応えがあって、さまざまな触発を受け、すっかり魅了された。古民家の一室に設えられた異空間と言ってもいいような閉塞感を際立たせるように今は見掛けることもなくなった昭和風のブラウン管テレビの画面に開演前から映し出されていた“スレンダーマシーンのTV通販”というのは、健康食品のCMとともに常日頃、僕が“最も不思議な現実離れ感覚”を呼び起こされるイメージなのだが、作り手にもそういう思いがあるのではないかという気がした。スレンダーマシンを装着するだけで引き締められるイージーな身体とは対極にあるような鍛えに鍛えた身体による見事なパフォーマンスを観ながら、いったいどういう鍛え方をして、どういう筋肉の使い方をすれば、かような身体表現ができるようになるのだろうかと湯浅永麻の一挙手一投足に観入っていた。


 冒頭、後ろ向きに正座したままの着物姿で振り掻き乱す黒髪の様々な動きに“伊藤晴雨のあぶな絵”を想起させられたのだが、その後に続く下着姿での打擲や震え、怯えを観ながら、何かに強く囚われ、ひどく傷み窮屈になっているものが何かを想ううちに、思春期の素の女性の心象の象徴のようなものを感じたのは、ひどく強調された時計の響きに寺山修司の遺作『さらば箱舟』を想起させるような場面が現れたり、ぶちまけられる幼い時分から今に至る大量のスナップ写真や、堀内佳子の映画『赤ぱっち』や黒澤明の『夢』を想起させるような狐の面を付けて顔を隠し衣服をまとうことで、ようやく震えが止まり滑らかな動きを手に入れることができるようになる姿を観たからかもしれない。『さらば箱舟』を想起したことには、古民家の一室という場の佇まいが大きく作用していたように思う。


 しかし、面を取り衣服を脱いで素に戻ると忽ち閉じ籠る鬱屈を抱えていたような気がする。沢田研二の歌う♪勝手にしやがれ♪を映し出すTV画像とともに繰り広げられたストリップステージさながらの赤い照明と踊りを観ながら、それもまた思春期の女性の大いなる鬱屈であるように感じた。この調子でずっとツラく苦しい心象イメージを続けられると難儀だなと思い掛けたころ、程よくトレンチコートの男との恋愛に恵まれたようで、身動きできない心の縛りからのまさに“脱皮”を果たし、閉塞していた自身に風穴を開け、素のまま外へと飛び出していけるようになっていく姿を見届けるに至り、ますますもってこれは寺山修司じゃないかと思ったりした。


 帰途、「なかなか観応えがあったね」と話し合っていたら、妻から「♪勝手にしやがれ♪が可笑しかったね」と言われ、ストリップダンスみたいなパフォーマンスのことを言っているのかと怪訝に思ったら、パフォーマーの湯浅永麻が田中裕子に似ているからの沢田研二だと思ったようだ。言われてみれば、確かに似ていたが、なぜ沢田研二なのかということに僕は、全く気付いていなかったので、感心しきりだった。




 その日の午後、映画『勝手にふるえてろ』(監督 大九明子)を観たら、奇しくもこれは午前中に観た『HOME』そのものではないかという気がした。異常でも偉人でもない24歳、男女交際未経験のOL江藤ヨシカを演じた松岡茉優が実に巧くて、自分に自信がないくせに自意識だけは過剰なまでに働き、表には出せない“上から目線”と“未熟な訳知り顔”を自身の内で繰り返してばかりいるという、どうにも手に負えない“若い女性の面倒くささ”を見事に体現している作品だった。『HOME』のようにツラさ苦しさが前面に出るのではなく、いささかカリカチュアライズされた若い女性の手に負えないめんどくささの活写に観ていて微苦笑の絶えない作品なのだが、何かひどい囚われによる窮屈な不自由を抱えている点でぴたりと重なっていた気がする。


 さすれば、『HOME』での♪勝手にしやがれ♪は『勝手にふるえてろ』からきたものでもあったのかもしれない。昨冬、東京では大ヒットしていたそうだから、それも大いにありそうに思った。





コープスパフォーマンス『ひつじ』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2011/43.htm

『さらば箱舟』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1984j/03.htm

『赤ぱっち』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2005j/14.htm

『夢』http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1990j/01.htm








  ヤマ

http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ 

     (『間借り人の映画日誌』)

http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html

      (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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2018年05月16日

テアトル・エコー公演 『もやしの唄』(高知市民劇場第332回例会)









'18. 5.11. 会場:県民文化ホール・オレンジ


 小川未玲の書いた本作を初めて観たのは、十一年前の地元劇団での公演だ。その演劇センター'90は、いまはもう解散しているが、元の劇団員は演劇活動を続けていて、その一人である現在カラクリシアターを主宰している谷山圭一郎を初めて観たのもそのときの公演だった。彼の演じた恵五郎の印象が妙に強かったせいか、今回の恵五郎は少々物足りなく、近所の中華屋で働く気のいい九里子(小泉聡美)が惹かれるのは恵五郎ではなくて、村松幸雄(川本克彦)のほうだろうという気がして仕方がなかった。泉商店の先代時代からの従業員だった明治生まれとの近藤喜助を演じていた後藤敦が、明治大正昭和を生きてきた人らしい佇まいを思いのほか所作に窺わせていて目を惹いた。


 それにしても、機関紙に転載された小川未玲の記事によれば、2012年が八年ぶりの再演だったようだから、演劇センター'90の公演は、初演からわずか三年という早さであることに驚いた。十一年前に、僕よりも十一歳年下の小川未玲が書いた「変わらなくても よかったのに…」との台詞に、少々小癪なものを感じた思いが今回はいささかも湧いて来なかったのは、僕自身の寄る年波のせいなのかもしれない。


 人々が共に暮らす繋がりの醸し出す温かみというものを、十一年前よりも素直に感受することができたように思う。いまではもう夜中に『もやしの唄』を聴いたことのある人なんて本当に一人もいなくなっているのではないだろうか。


 折しもふとしたことから『この世界の片隅に』の原作漫画を読んだことから、映画化作品の公開時に綴った日誌を開くと、「戦況が悪化するなか、すず(声:のん)の呟く「いがんどる…」が心に深く刺さってきた。本作に描かれた戦前・戦中・戦後まもなくの日本を僕は同時代では知らない。わずかに薪で風呂を焚いたことや直火で飯を炊いた経験はあるけれども、日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活からは既に遠くなっている」と記している一節があった。『もやしの唄』にはまさしくこの「日々の暮らしを近所の人たちとともに営む生活」が描かれていたように思う。


 観劇後のバックステージツアーに誘われ、井戸からの手押し汲上ポンプから実際に水が汲み出されていた舞台装置を見分した。遠い昔、僕の家にもあったものだが、取水口に袋掛けしていた布に赤錆が付着して色付いているさまが施されていて、その芸の細かさに感心するとともに、懐かしい想いが湧いた。




http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/4-28.html











  ヤマ

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     (『間借り人の映画日誌』)

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     (『ヤマさんのライブ備忘録』)





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